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秋山駿氏の死を悼む

秋山駿氏の死を悼む


10月2日文芸評論家の秋山駿氏が亡くなられた。83歳だった。

精神科医であり、「常識」という最近頓(とみ)に欠落していることを指摘し続けた、なだいなだ氏が83歳で亡くなったのが6月。
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なだいなだ

ペンネーム「なだいなだ」は、スペイン語で「何もなくて何もない」(nada y nada)という意味である。英語のnothing and nothingにあたるであろう。(以下、敬称略)

なだいなだも、秋山駿も現代人に警鐘を鳴らし続けた人だった。
なだいなだが晩年に書いたことについては、次回のシンポジウムで少し触れたいと思っている。

さて、秋山駿は「石」にこだわった人だと思っている。『舗石の思想』(講談社文芸文庫)の中の「ノートの声」は、私にとって強烈に突き刺さる言葉で始まっている。
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秋山駿

「或る人は、生活というものに一度も出会わないで死んでゆく」

から始まるのである。
この後の展開は、後述するが、その前に秋山駿の『片耳の話-言葉は心の杖』(光芒社)について書いておきたい。
秋山駿は幼児期から右耳がまったく聞こえなかった。それについて、例えば「片耳の人生」のなかで苦い体験をいくつか述べている。

電車や、旅行の列車で、右隣の人と会話することができない。返事をしない、黙ったままの奴がいることになる。相手は不愉快に思うだろう。

退屈な会議が進行しているとき、右隣の男の軽妙な批評の一突きが聞こえない。低音だからだ。かなりご機嫌を損ずることになる。
パーティは、もっと困る。かなり長い間親しい編集者から、あの人がお前のことを怒っているよと注意された。しかし、身に覚えはない。ずっと後になってようやく気が付いた。たぶん、右耳に語りかけたその人を、私が完全に無視黙殺したからであろう。
だから、この数年来、右耳に荷札でもぶら下げて、「この耳聞こえません」と書いておくといいのかな、などと冗談をいっている。

車社会になって、道に車が多くなったので、夜、駅からの歩道のない道を帰るとき、私はしばしば後を振り返る。背後からの車の接近の感知に鈍いからだ。すると時折、二十メートルくらい後からくる女性が、いきなり駆けるように早足になったり、道の反対側に行く。私が怪しい奴に見えるのであろう。どうも気の毒だったなと感ずるが、これは仕方がない。


いいこともある。片耳は、私に弱者の感覚を教えてくれた。


等々。
「ノートの声」に戻ろう。
私がくどくど解説するより、原文を紹介した方がいいだろう。

或る人は、生活というものに一度も出会わないで死んでゆく。
こういう人の一日は、つまり、昨日という一日とまったく同じものなのだ。その昨日はというと、そのまた前の一日とまったく同じ内容を繰り返したものに過ぎないのだ。そして、明日は?……いや、そんなふうに考えるはずはない。考えれば否応なく、新しい生活というものが始まってしまう。それでは、昨日もなく明日もなく、ただ一日の内部のなかに、自分の生を石化させておくことができなくなってしまう。
こういう人生を視るのは怖ろしい。長い間かかって、ただ一日しか生きてはいないような存在に感ぜられるからだ。しかし反面、たいへん滑稽にも思う。なぜならこういう人は、確かに生きているのに、真の生活というものに出会ってはいないからだ。そういう人間の不思議な機構を視ていると、私は思わず、これは毀(こわ)れれたレコードなのだという印象を抱く。レコードには無数の溝というか皺のようなものが刻まれている。言葉だけの戯れになるが、そこに鋭い針による苦痛を与えて回転させると、一つのメロディが演奏される。人生とはそんなものだ。ところが、この皺が最初から不良だったり、溝の凸凹が磨滅したあげく何処かの一箇所が傷つくと、広い平坦な溝ができて、針は、もはや溝の現実の抵抗によってそれ以上自分を進めることができず、ただその広い溝の同一の円周上を無限にぐるぐると回転してしまう、ということになる。そんなふうに、自分の人生を、ただの一日だけで無限に回転してしまう人がいる。その一日が、ただ彼の出会った広く平坦な道だというだけの理由で。
ちょうど、よく一年の計は新年の最初の日から始められなければならない、とか考えて、元旦から、日記をつけ始める人のようなものだ。三日ばかり、たいして代り栄えのしない一日の内容を記してみる。しかし、同じ内容しか書くことがないので、すぐ飽きてしまい、ノートはパタンと閉ざされ、永久に顧みられることはない。彼は、それでも三日の間は生きたのだ、と懐疑なく言えるだろうか?


秋山駿の言う「自分がもはや、決して後戻りのできない場所」へと近づいている私には、突き刺さる文章である。

「自由」を目指して、バベルの塔を築くが如く私たちは歩んできた。
その「自由」という魔語がもたらした惨憺たる現状について、考える必要に今、迫られているのではないか。
「規制」という言葉が出た瞬間、鸚鵡返しのように「自由」という言葉が出て来る現状は、大いに危惧すべきではないだろうか。規制は撤廃し、自由を目指すという子供じみた考えからそろそろ脱却すべきではないか。
そもそも日本でいう「自由」とは「放縦」と同義語に限りなく近い意味ではないか。
この「自由」といういささか厄介な言葉については、文芸評論家・河上徹太郎(1902-1980)の「配給された自由」という有名な記事がある(東京新聞 昭和20年10月26・27日、『河上徹太郎著作集第一巻』収録)。
抜粋してみる。
TKY201304030414.jpg
河上徹太郎

八月十六日以来、わが国民は、思いがけず、見馴れぬ配給品にありついて戸惑いしている。
─飢えた我々に「自由」という糧(かて)が配給されたのだ。これによって我々の飢餓(きが)が癒やされるであろうというのは、正しく間違いのない理論である。然しこの理論の間違いなさと、実際に飢餓が解消するということは、これまた別のことである。何故なら要するに「自由」とは我々の到達すべき結果の状態をいうのであり、今はそれが手段としてあてがわれているのだからだ。(中略)
然(しか)し自由も配給品の一つとして結構珍重(ちんちょう)されている。
元来配給品というものは、手近に代替物が得られ難いこと、糧としての価値が全然無価値ではないこと、決して純粋ではなくて栄養分の若干ある数種の雑穀の混ぜ物であることなどを不可欠の要素としているが「自由」もまたこの性格を欠いていない。人気があり、重宝がられる所以だ。どんぐりの栄養価を持った衛生無害な政治家や思想家が輩出するわけである。
しかも今の場合、この自由がまた舶来と来ている。舶来品も食物なら口から腹へ通せば先ず間違いないのだが、自由の対象が思想であれ制度であれ、それが翻訳され方策化される間に、ついその真意が逸脱してしまう。


そして最後にこう書いている。

だから今日の文化は、現実の理想からも絶望からも等しく我々の眼を覆い、そういふ宙ぶらりんの状態に我々を繋ぎとめる軽業を狙っているようなものだ。文化の諸条件だけ具えた合成酒を創るようなものである。我々はそんな甘い救いに惑わず、真剣に孤独のうちに悩まねば、真の自由は獲られないのである。



これが敗戦後、2ヶ月余り後に掲載されたものであることに驚きを禁じ得ない。
「自由」freedomの原義は奥深いであろう。ダーウインの進化論とも関係が出てくるのではないかと思う。
The Passionと書くと苦しみ抜いて十字架にかけられたイエス・キリストの受難を意味する。
Passionと書くと熱情、激しい感情という意味になる。つまりこの言葉は、激しい熱情を抱いて、十字架につけられたことを表すであろう。
この「自由」という言葉の背景には、多くの犠牲があって生まれた重く深い言葉であろう。
秋の夜長、しばしこうしたことを考えることも必要な気がしている。

以上、自戒を込めて。

秋山駿氏のご冥福を心からお祈りいたします。

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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」

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