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「貧しさ」を考える ─「貧困」か? 「貧乏」か? ─

「貧しさ」を考える

─「貧困」か? 「貧乏」か? ─


「格差」と言う言葉の意味は、『広辞苑』によれば、「商品の標準品に対する品位の差。また、価格・資格・等級などの差」とある。中立的な意味である。だが、現在この「格差」という言葉は、瞬間的に「是正すべき」「あってはいけない」という感情が対応しているような気がする。中でも大きな問題になっているのは、「経済的格差」、言い換えれば「貧しさ」の問題であろう。今回の配信では、この「貧しさ」について考えてみたい。

「格差」という言葉が、瞬間的に「是正すべき」あるいは「廃絶すべき」という言葉に繋がると述べた。この主張に反対する人はまずいないだろう。「戦争のない平和な世界を」に反対する人がまずいないように。
福祉制度の格差、年金制度、税制、学校教育、家族制度等々、何らかの不備があり格差があろう。
これらを同時に抜本的に改革すべきと唱える人々がいる。しかし、政治家のよく使う「抜本的改革」すなわち「根を引っこ抜く」ようなことをしたら、社会の長期にわたる混乱と停滞が生じ、その大きな被害を真っ先にこうむるのは格差を訴える人々自身であろう。
そう言えば、七十年代に中学の音楽の成績評価に差がつけられないと言って、オール3をつけ、話題になった教員もいたことを思い出した。
これらの「格差」の中で「経済的格差」、すなわち「貧しさ」について私なりに掘り下げて見たい。

最初に用語の定義を押さえておこうと思い、いくつかの辞書を引いてみた。
はじめに「貧しさ」というときの「貧」という漢字について調べてみた。

「貧」について
分と貝から成っているが、分は分ける、貝は財産を意味する。白川静『字統』によれば
「財を分かつとは、一連の貝を分かつ意。」とある。そこから
「財貨が分散して少なくなる、まずしいの意味を表す。」(『漢語林』)となる。
では、「貧」を冠する「貧困」と「貧乏」は同義語なのか。
今回(も)配信が遅れたが、入試の時期でもあり、時間が割けなかったこともあるが、意外にこの「貧困」と「貧乏」について調べるのに時間を要したことは事実である。

「貧困」とは
『広辞苑』には
・まずしくて生活が苦しいこと。
・乏しく欠けていること。
とある。
『新明解国語辞典』には
・貧乏で生活が苦しいこと。
・必要とされる、より高い知見・思想・方法論などが不足している様子。
とある。では、「貧乏」はどうなのか。

「貧乏」とは
『広辞苑』では
・まずしいこと。財産や収入が少なくて生計の思うようにならないこと。貧困。貧窮。
とある。
さらに『新明解国語辞典』には
・経済的なゆとりが無くて、衣食住のすべてにおいて見劣りがすること(様子)。
とある。

あまりぴんと来ない。しかし、「貧困」と「貧乏」は何となく違うような気がしてならない。
では「貧」のあとに続く「困」と「乏」はどういう意味か。

「困」について
『字統』では
・口(い)の形の枠に木をはめて、出入りをとめる門限の意。
とあり、『漢語林』には
・木が囲みの中にあって伸びなやみ、こまるの意味を示す。
とある。

「乏」について
『字統』では
・仰向けの屍体の形。亡とまた声義の通ずるところがある。
とあり、『漢語林』には
・足の字(正)を反対向きに書き、足りないの意味を示す。
とある。

漢字の意味は分かるが、日常使うときとは隔たりがあるような気がしてならない。
少しずつ、思想的な面から調べてみることにした。

binbou

河上肇の『貧乏物語』まで辿って朧気ながら「貧困」と「貧乏」の違いが浮かんできた。1910年代の格差社会について書いたものだがなかなか面白い。

貧乏なる語にはだいたい三種の意味がある。すなわち第一の意味における貧乏なるものは、ただ金持ちに対していう貧乏であって、その要素は「経済上の不平等(エコノミック・イン・イクオルティ)」である。第二の意味における貧乏なるものは、救恤(きゅうじゅつ)を受くという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の依頼(エコノミック・デペンデンス)」にある。しかして最後に述べたる意味の貧乏なるものは、生活の必要物を享受しおらずという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の不足(エコノミック・インサフィセンシイ)」にある。(註「救恤」:困窮者・罹災者などを救い恵むこと)

ここにある「経済上の不平等」「経済上の依頼」「経済上の不足」これらを混同して使い、「貧困」と言ってみたり「貧乏」と言ってみたりしているのではないかと思われてきた。
世の中には実に便利な辞書があると思ったのは、『似た言葉使い分け辞典』(創拓社出版)という辞書に行き着いたときだった。
使い分け辞典

まさにそこに「貧しい」「貧困」「貧乏」の使い分けが書かれているのである。引用する。

貧しいは、財産や金銭が非常に少ないため、経済的に苦しい生活状態にあることを言う。また、経済状態以外にも、内容が質的・量的によくないの意を表す。
貧乏は、経済的な欠乏状態にあることで、主に個人について用いる。経済状態以外の意は持たない。〈貧しい〉がやや文章語的なのに対して、これは漢語だが日常語である。
貧困は、経済的に生活に困っている状態の意のほかに、精神・知識などの面で、内容的によくないさまを表す。

「貧困問題」とは言っても「貧乏問題」とは言われない。「貧困」は数値化できるが「貧乏」は数値化できないのである。
『定義集』(ちくま哲学の森 別巻)の「貧乏」の項に『金魂巻』(渡辺和博)からの引用があった。この本は、ご存知の方も多いと思うが、バブル直前の一九八四年「○金」「○ビ」という二分法で、「ビンボくさい」というのはどういうふるまいを指すのかを論じてベストセラーになった本である。
副題は「現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造」とある。
金魂巻

「まえがき」にこう書いている。

○金(金持の人)の強味は、お金が余って幸福なので、いつもニコニコしていることです。
その結果、彼は善人に見えるので他人から好かれ、他の多くの○金仲間が合体して、よりいっそう○金の地位を固めています。
一方○ビ(ビンボーの人)の弱味は、○ビも○金になりたいと願ってしまうことです。高級インスタントコーヒー。日やけサロン。原宿竹下通りで家内製手工業で生産されたコム・デ・ギャルソンのようなもの。○ビの憧れを逆手にとった気分は、○金のグッズは、世の中にあふれています。その結果、○ビはやりくりが苦しくなってますます○ビへの道を盲進してしまうのです。
さて、やっかいなのは、一度歩み始めた○金と○ビのコースは、なかなか変更できないことです。かつての○ビは、健気な庶民としてやりくりをつけ、清く正しく生きていたものを、現代では見栄の○ビがノーマルになり、自覚がなくなってしまったからです。


もうお分かりであろう。「貧乏」というのは他人を羨望した瞬間、生まれるのである。河上肇の言う「経済的不平等」から起きるのである。「貧困」は経済的な問題であり、「貧乏」は心理的な問題である。
「貧困」≠「貧乏」
である。
すると今、日本が抱える格差問題は主として「貧乏」なのではないだろうか。「あの人は○○を持っている。私も○○がほしい」「あそこの家は○○に行ったのに、うちは△△にしか行けない」という次から次と湧いてくる羨望の気持ちではないだろうか。
日本は「貧困」からは脱したが、「貧乏」に突入したとは言えまいか。
そして、厄介なことに誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできないのである。
それが生まれた背景には「人は皆、生まれながらに平等」という『人権宣言』があろう。
生まれながらに平等であるはずなのに、現実は権力や財貨等々に個人差がある。それを「苦しみ」として感じるのが「貧乏」である。
では、「これだけ所有していれば、もう十分。苦しむのを止めよう」と考えるように国民が皆、思ったらどうなるか。日本経済は立ち所に火が消えるであろう。
資本主義市場経済は、できるだけ多くの人が「あぁ、私は貧乏だ」と思わせることで繁栄するのであるから。国民の多くが悟りきった隠居生活のようなことをしたら、資本主義は破綻するのである。
そして、当面はこの資本主義経済を止めるわけにはいかない。
資本主義の繁栄とは、これからさらに「貧乏」と自覚する人々が増え続けることとほぼ同義であろう。
以上述べたことを、少し頭の片隅に入れておきたいと思う。

ここまで書いて、一つ触れておかなくてはいけないことがあると思う。これもまた少々厄介なことであるが。
クリスチャンでなくても、「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉はご存知であろう。マタイによる福音書に出てくるこの歯が浮くような言葉に、嫌悪感すら覚えるのではないだろうか。
さらにルカによる福音書では、「心の」がなくなって「貧しい人々は、幸いである」とまでなっている。何故、貧しい人間が幸いなのか、理解できないと思われた方も多いのではないだろうか。
最後にこの問題について書いてみる。

そもそも英文ではどう書かれているのか、ご紹介しよう。
NKJV(New King James Version)改定欽定訳には次のように書かれている。
マタイによる福音書
5:1 And seeing the multitudes, He went up on a mountain, and when He was seated His disciples came to Him.
5:2 Then He opened His mouth and taught them, saying:
5:3 Blessed are the poor in spirit, For theirs is the kingdom of heaven.

ルカによる福音書
6:20 Then He lifted up His eyes toward His disciples, and said: Blessed are you poor, For yours is the kingdom of God.

これを新共同訳聖書では
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」。

6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから」。

著名な聖書学者・田川建三はこう解釈する。

「イエスがどういうつもりでこの言葉を口にしたにせよ、キリスト教は二千年間イエスにかこつけてそういう役割を果してしまったのだ。」と言い、「神の国は貧乏人のものなのだ、きっとそうしてやる。というわけで、イエスは『幸い、貧しい者』のあとにもう一句つけ加えた、『神の国は彼らのものとなる』」。


些か感情が先行している気がしてならない。
「心の貧しい人々」を新約聖書から切り離して、一つの日本語表現として単純に考えた場合、一般に人はいったいどんな意味に理解するか。
おそらく、自分のことしか考えず、他人への思いやりはまったくない利己主義者、物事の精神的な価値を認めようとしない偏屈者、故意に人に逆らう天(あま)の邪鬼(じゃく)、自分の過ちや失敗を知りながらも決して頭を下げない頑固者等々、一口で言うと、たいていの人にとって自分はそういう者ではありたくないと思われる種類の人間であろう。
「心の貧しい人」とは決して好ましくない人間を示すであろう。イエスは、なぜそういう人々のことを幸いだなどと言ったのか?
「新共同訳聖書」の前身「共同訳聖書」の編纂に関わった堀田雄康神父は、これは翻訳の問題であるとこう書いている。

旧約聖書の思想全体に照らして言えば、「貧しい人」は「しいたげられている者、苦しむ者、あわれな者、柔和な者、謙遜な者、弱い者」でもあり、自分の人間的弱さ、貧しさを自覚して、神によりすがることこそ救われる道であると悟った人たちのことです。一口で言えば、「神の助け以外によりどころのない圧迫された人々」のことです。


「グッド・モーニング!」を「よい朝を!」と翻訳したようなものであると。
「共同訳聖書」の編纂に関わったことから、「共同訳聖書」では

「ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから」。


と一旦変わった。しかし、その後の「新共同訳聖書」では「心の貧しい者は幸いです。」に戻ったのである。堀田神父は語っている。

この経緯については裏の事情がいろいろありますが、たとえ正しい翻訳でなくても長く慣れ親しんだ表現は捨てられないとする閉鎖的考え方、元どおりにしておかないと聖書は売れないからという商業主義的考え方が、その最大の理由です。
他の編集委員の方たちのことはいざ知らず、私個人としては、これこそ原文に不忠実な翻訳、読者の理解を裏切る贋物(にせもの)の翻訳であると思っています。


説明は不要であろう。ただ救われるのは、2011年に出版されたフランシスコ会訳では

5:3 「自分の貧しさを知る人は幸いである」。


となり、脚注に

「自分の貧しさを知る人」は、一般には「心の貧しい人」と訳されているが、直訳では「霊において貧しい人」。人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけである。


となっていることである。
「心の貧しい人々は、幸いである」は確信犯的誤訳であったとも言えようか。
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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」

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