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「誓う」という愚行

「誓う」という愚行

はじめに シンポジウムご協力への御礼
『食の安全と自給』というテーマで11月17日シンポジウムを行いました。
多くの方々のご協力に深く感謝申し上げます。詳細は本ブログで要約を順次公開していきます。
小さな小さな集いですが、発足して3年、徐々に根を下ろしてきてくれていれば、この上ない幸いです。

「戦争」と「平和」という言葉は対比されて使われることが多い。戦争によって人々が多くのものを破壊されたり失ったりする。パレスティナを初めとして、世界では今まだ戦争が絶えない国々が存在する。それに比べて、日本を「平和ボケ」の国と表現する場合がある。平和の国・ニッポン。果たしてそうだろうか。
目を国外に向ければ、中国では日本製新車が無惨にも破壊され、その損害は膨大な金額になっている。

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北朝鮮による拉致問題も未だに光が見えてこない。
国内に目を向けると、大震災の復興どころか復旧すら遅々として進まず、マニフェストとして国会議員が「教育改革」というスローガンを掲げても、「いじめ」によって自らの命を絶つ子どもが全国にいるという悲惨な報道がされている。
何故こうなってきたのかを究明することなく、記憶から消し去られていく。
戦争によって国民が幸福を破壊されるのとは表面的・現象的には異なっていても、信じがたい混乱と打撃によって、人々の生活、運命が破壊されているのが今の日本ではないだろうか。
人間の不純さを認められない総幼児化、何よりも国という組織を形成している要・家庭が崩壊しつつあるのではないだろうか。
これを果たして平和と言うのだろうか。

今回はシンポジウム当日、時間的なことから話題にできなかったことを中心に書こうと思ったが、昨今の大きな社会問題の一つ「いじめ」について述べることをおゆるしいただきたい。

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11月23日の朝日新聞は読み応えのある記事が多かった。この日、いじめが今年半年間で14万件を越えたという記事が多くの新聞の一面に掲載された。
今回の配信では、それについての有識者のコメントから考えてみたい。

教員養成を主とする某国立大学の教職大学院特認教授(以下A教授とする)という方の「話」が或る紙面に掲載されていた。
短いので全文載せる。

「平成23年度の調査に比べ、小学校の認知件数が半年間で2.7倍に増えていることに注目したい。潜在的ないじめが小学校に多く、教師たちが早期対応してこなかったことが、中学校での『重大事案』につながっていると読み取れる。小学校での軽微ないじめも見過ごさず、きちんと指導することが重要だ」


このA教授が言っていることを換言すれば、小学校教師がいじめへの早期対応を怠っていたが故に、中学での悲惨ないじめが増えたということである。
この短い「話」を朝、出かける前に読んだとき、何とも言いようのない気持ちになり、それが今も続いている。
「言いようのない気持ち」であるからそれ以上表現できない、と言ってしまえば身も蓋もない。
人間はホモ・ロクエンスなのだからそこを語らなくてはいけないだろう。

この発言が、ジャーナリストや評論家だったら気にならなかったであろう、いつもの「通説」だと。
教職大学院特認教授という肩書きの人間の発言ということが気になるのである。
今に至るまで「教育学者」という方々の書かれたこと、或いは述べられたことで、現状を正しく把握していると思われるものがあまりない、私が接してきたなかでは。
空論なのである。小浜逸郎氏の書かれたものなど例外的なものはあるのだが、概ね空論である。空論だけならまだいい。それが現場をかき乱す「弊害」となる場合が多いのである。
先を急ぎすぎた。

別の視点から見てみよう。
A教授が問題視する小学校の教員について、11月2日の朝日新聞の記事に注目してみたい。
「小学校教員採用試験3.6倍 過去10年で最高 神奈川」というタイトルで、次のようなことが書かれている。

県教育委員会が今夏実施した公立学校の教員採用試験で、小学校の合格倍率は3.6倍と、過去10年で最高の倍率になった。団塊世代の大量退職などで、3倍を切る低倍率が続いていたが、福岡市や仙台市での試験実施などが奏功した。


さらに

教員の質を一定レベルに保つには倍率3倍以上が目安と言われる。団塊世代の大量退職の穴を埋めるため、採用数が増えるなどして倍率は低迷。2005年には2.2倍にまで落ちるなど、04年以降、3倍を切る状況が続いていた。埼玉県が06年から、東京都も09年から東北や九州での試験を実施しており、広域で人材を求めることにしたという。

とある。この記事からは、教員の一定の質をキープするための(必要)条件がクリア出来たという安堵感のようなものが伺える。
だが少し考えてみれば、これは大きな問題を孕んでいることにすぐ気がつくはずである。
首都圏の大学生は、小学校の教員になることを敬遠しているということに。
確かに多くの大学生がいる首都圏には、はっきり言って「学ぶ権利」などとはほど遠い、「学ぶ義務」を課したくなる学生も多くいる。それ以前に、常識さえ持たずに大学生になっている人間も多い。「東京イカシカ大学」を「烏賊」と「鹿」(という生き物)を研究している大学だと思っていたなどと、笑うしかない言葉を発する大学生もいる。
些か横道に逸れてしまった。
未だに大学生の就職難は続いている。地方大学の多くの学生は、地元の最も安定した「優良企業」である「地方公務員」に何とかなろうと、超狭き門に挑戦し必死なのだが、枠は限られている。大学生の就職率が伸びないという報道が最近されたが、特に地方大学の学生にとって就職は凍ったままである。
そこに首都圏の教員採用を地方会場をつくって行い始めたのだから、これまでの低倍率は解消されるはずである。

では、何故、首都圏では小学校の教員になることを敬遠するのだろうか(中学校の教員も同様に敬遠されている)。この現象については、私などより教職大学院におられるA教授がお詳しいはずであるが、私の私見を述べてみたい。
A教授に代表されるような有識者が無責任な意見を吐き、それがマスコミを介してまかり通るから大学生は「教職課程」すら敬遠するのではないだろうか。
「潜在的ないじめが小学校に多く、教師たちが早期対応してこなかったことが、中学校での『重大事案』につながっている」という「世間受け」する意見を無責任に吐くことがどれだけ、若い有能な教員を養成することへの負の作用をしていることか。
何故、このA教授のような「専門家」の発言には、「家庭」という概念が一切欠落しているのだろうか。「他人をいじめてはいけない」「盗んではいけません」と子どもに言う、つまり「躾」の主たる責任は、家庭にあるという見識に立たなければ、教員などにはとてもなりたくはないと思うのは至極当然であろう。「躾」は『字統』によれば「身だしなみを意味する字で、身と美とに従う」とある。さらに『新明解国語辞典』によると、「仕付け」と同義で「礼儀・作法を仕込むこと。縫い目を正しくするために、仮に糸で縫い押さえておくこと」とある。

「学力をつけるのは塾」そして「躾は学校」という偽モンスター親に、若手教員は太刀打ちできない。何故なら反論を言おうものなら、たちまち教育委員会に「言い付け」られ、現場の長(校長)が「謝罪」を要求され、A教授に代表されるようなマスコミの総攻撃を受け、最後は「責任者」の定例句「遺憾である」で終わるのである。
学校側が何ら間違っていないなどと言うつもりはない。ただ、一方的に
いじめ=学校の責任
という短絡的図式がまかり通ることで、教員が隠蔽したり、事なかれ主義になったり、鬱的状態の教員が生まれ、大学生が教員希望から遠ざかるのではないかと言いたいのである。

東京都品川区で9月、区立中学1年の男子生徒(12)がいじめを受けて自殺するという痛ましい事件が起きたが、この問題で、教員らが何度も「いじめ行為」を見聞きしながら対応できていなかったことが分かったという記事が載った(11月11日朝日新聞)。

報告書によると、いじめの兆候は入学直後からあった。4月下旬に生徒の赤ペンがなくなり、5月に2回、シャープペンシルがばらばらに壊された。
「誰がやった」。担任は学級で尋ねた。赤ペンは教室の隅に落ちているのが見つかった。シャーペンの件は誰も申し出なかった。
5月中旬、生徒は学級で「きもい」「うざい」と言われだす。給食の際、隣の生徒が机を20センチほど遠ざける行為も日常化。担任はそれに気づき、少なくとも一度は注意したが、大きな問題とはとらえなかった。
6月に上履きを女子トイレに投げ入れられたときも、7月に約10人から蹴られたときも、それぞれ教員が把握し、一定の指導をしていた。嫌な雰囲気を感じ、「生徒の人間関係が心配だ」などと教員同士で話題になったこともあった。
だが、しっかりした対応には至らず、報告書は「いじめへの対応を形式的に行っていた」と指摘する。
 一方、学校側が気づかなかった行為も少なくない。
すれ違いざまに殴る。くるぶしを蹴る。転ばせる―。自殺後の調査で、生徒6人が暴力行為を認めた。「きもい」などと言葉でいじめたのは28人。ばい菌扱いし、生徒の使った水道は使わない方がいいと言ったり、掃除中に生徒の机に触れないようにモップで引っかけて運んだり……。
同学年190人のうち、いじめ行為を見聞きしながら傍観していた生徒は98人。そのうち、傍観していること自体がいじめだと自覚していたのは10人いた。
報告書は、学校側が「教科書的ないじめ」の存在を認識できなかったと指摘。「いじめは学級を中核にして広範囲に広がり、長く続いていた」と分析する。


中学校入学直後から起きていたこの悲惨な事件も、

この問題で、教員らが何度も「いじめ行為」を見聞きしながら対応できていなかったことが分かった。

と単純化していいとは、私には到底思えない。先の大津市での悲惨な事件のように、日本全国で同じような問題を抱えているのではないだろうか。一学校の力でどうにかなるというような問題ではない。奥の深い社会問題である。

子どもを庇うのは最終的には親しかいない。したがって、親はモンスターであるべきである。
しかし、偽モンスターが多すぎるのである。「正統派」モンスター親なら、自らの子どもの躾の第一責任者は自分であると自覚した上で、意見を主張するはずである。そういう方々を私は何人も見てきた。子どもの権利を主張するなら、躾の責任の大部分は自分たち親、あるいは家庭にあると自覚すべきである。そのうえで、堂々と子どもを守るために学校側の不備を語れば良い。
だが、現状はどうか。子どもが石に躓いて転んで怪我をしたとき、「転んだのは、そこの石をどかせなかった行政が悪い」式の話が山積してはいまいか。マスコミはそれを助長してはいまいか。
それが子どものためと思っているのだろうが、そんな育て方をしたら自分たち親が高齢者になったとき、地獄を見るのではないかなどと危惧してしまう。

専ら子どもがいじめられている現象に焦点が当てられているが、その親たちにも自らの親が必ずいる。自分の親にどう対応しているのか。高齢になって一人暮らしの親にときどき電話一本すらかけてやらないなら、それは「いじめ」のカテゴリーに入るのではないだろうか。
そんな時間がないというのなら、そういう社会が当たり前と思うこと自体、異常なのではないか。

小学校や中学校は特に、家庭と学校の双方の協力が必要である。一方的に相手が悪いとする論理は楽である。だが、現実はそうではない。

教員として学校に勤めたいと思う学生が少ないことが問題だと言ってきたが、一方で、学校が今や、将来有望な教員が勤めてから「立ち去りたい職場」と化してきてはいまいか。「立ち去りたい職場」と化すことは大問題である。「長」とつく人物は真剣にその背景を考えるべきである。父母に迎合するのが任務ではないはずである。

将来有望な教員が何故立ち去りたいのか。学校が出来もしないことを出来るように言ってしまったり、押しつけられたまま、閉塞感で覆われ、押しつぶされるからではないか。

マスコミで、街頭で、またまた「マニフェスト」なる言葉が一人歩きしている。
マニフェスト、たかだか宣言文程度の意味である。マニフェストとして掲げた中で実現できないことは、『想定外』と言う。そもそも『想定外』のことへの対処を考えるのが政治家の本業ではないのか。想定内のことだけだったら、政治家は不要ではないのか。そんな現実を認識できない知性に乏しいが人間が、政治家になっているという現状である。
イエスは「誓ってはならない」とこう語っている。

「あなた方も聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いをしてはならない。誓ったことは主に対して果たさなければならない』と命じられていた。
しかし、わたしはあなた方に言っておく。決して誓ってはならない。天にかけて誓ってはならない。天は神の玉座だからである。
地にかけて誓ってはならない。地は神の足台だからである。エルサレムにかけて誓ってはならない。エルサレムは偉大な王の都だからである。
また、頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一筋でさえ、あなたは白くも黒くもできないからである。
『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは、悪魔から来る」(マタイによる福音書5.33-37)『フランシスコ会訳』


話が飛んでしまった。
子どもに学力をつけるのは塾の責任、躾は学校の責任、自らの親の面倒をみるのは施設の責任等々。これらの仕事についている人間が、働き甲斐のある職場にする重要な要素に「家庭の役割・責任」ということを冷静に考えることがあるように思えてならない。

来春2013年4月6日(土)のシンポジウムでは、現在の教育について皆様方と論じる予定ですが、昨今のいじめをはじめとした報道を巡って問題提起の意味で書いてみました。

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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」

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