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震災から1年以上を経て

震災から1年以上を経て
ブリコラージュの民

4月7日のシンポジウムについては徐々に開示していく予定であるが、時間的なことからそこでは触れることができなかったことについて述べておきたい。

「復旧ではなく、復興を」「日本社会の大きな転機」こうした言葉が、震災直後、打ち上げ花火のようにあちこちで鳴り響いた。多くの人々の記憶に未だに新しいのではないだろうか。
「東日本大震災による被災地域の復興に向けた指針策定のための復興構想について」を当時の菅直人総理大臣によって諮問された、「東日本大震災復興構想会議」(五百旗頭 真(いおきべ まこと)氏を議長とする)による「提言」にここ数日、目を通してみた。
答申

会の存在は何となく覚えているが、その「提言」は恥ずかしながら私は初めて読むものだった。web上で読むことができるが、字数が4万字以上に上るかなりのボリュームの「提言」である。
学者、文化人、被災地3県の知事、企業経営者等々からなる組織である。この「提言」内容についてはいつか触れるかも知れないが、ここではその一部を紹介をすることと、一つの教えをブログ読者に請いたい。

1.「提言」からの紹介
「結び」の部分を見てみると、次のようなことが書かれている。

かつて地震学をも研究した寺田寅彦はこう言った。関東大震災から12年たった時のことだ。「いつ来るかもわからない津波の心配よりも、あすの米びつの心配のほうがより現実的である」と。われわれもまたこの誘惑に負けそうになるかもしれぬ。
しかし寅彦の警句を超える手強い事態があることを忘れてはならない。何あろう、それこそが未だ解決の契機を得ず原発事故に苦しみ続けるフクシマの姿に他ならない。もはや「元のもくあみ」にはなれぬことを、原発事故は明示しているからだ。
地震と津波は今後もおこりうるという前提の下、「減災」の考え方で進むことになる。では、原発事故については、果たしてどうなのか。
フクシマ再生の槌音は、いくら耳をすませても聞こえてはこない。その地はまだ色も香もない恐怖の君臨に委ねられている。だから、静かな怒り以上のものにはなりえない。フクシマの再生を世界の人々とともに祝(ことほ)ぐことのできる日が少しでも早く来たらんことを、望んでやまない。

以上をもって、われわれの「提言」は終わる。


十数回の会議を重ね、時間をかけて落ち着いたのがこの「提言」である。「フクシマの再生を世界の人々とともに祝(ことほ)ぐことのできる日が少しでも早く来たらんことを、望んでやまない。」というのが「提言」の「結び」である。この「提言」がその後、どう扱われているのか不明である。おそらくほとんど何も生かされてはいないであろう。文体も文学的とでも言える箇所が多く、「提言」としては馴染まない場違いな表現方法のような気がする。それ以上に、肝心の問題点、特に原発事故について具体的な具申はしていない。これでは右往左往しているだけで、一歩も先に進まないであろう。
残念ながら「提言」については、ほとんど予想を逸脱しない内容であった。ただ、読んでみて気になることが一つあった。それが本ブログの読者に教えていただきたいことである。

2.「ひらがな化」する意味・意義─教えてもらいたいこと
4万字以上の「提言」のなかで、何箇所も「ひらがな」で表記された言葉があった。ざっと上げてみる。
「いのち」「つなぐ」「まちづくり」「むらづくり」「くらし」「しごと」「地域のたから」「地域のこころ」
等々。なかでも「つなぐ」という言葉は「提言」のキーワードになっている。
(もっとも民主党内に震災直前の3月8日あたりに設置が決まった、「ぬくもり助け合い本部」(本部長・鳩山由紀夫元首相)なる軽薄なネーミングを思えば、何の不思議はないのだろうが。)
教えてもらいたいことというのは、わざわざ「ひらがな化」することにはどういう意味があるかを、ご自分のお考えや論じた文献等についてご教示いただきたいということである。樋口一葉らが思い浮かぶのであるが、あくまで漠然としたものでしかない。何故、「生命」とせずに「いのち」としたのか、「町作り」とせずに「まちづくり」と表現したのか。心理的なある種の「効果」があるはずである。神経質になりすぎているかも知れないが、是非、ご教示いただきたい。
(「フクシマ」も気なるのだが)。

3.原発事故について
次に、会の「提言」では、ほとんど無味乾燥な言葉の羅列になっている今回の原発事故について思想的な面から考えてみたい。

先ほど「これでは右往左往しているだけで、一歩も先に進まないであろう。」と述べた。言い換えると、どうしたら良いかが、分からないのではないだろうか。だから震災から1年を経ても何も出来ないのである。

(1)ブリコラージュの民
ブリコラージュ(Bricolage)とは、何冊かの仏和辞典によると

「おざなりの修理」「ものを自分で修繕する」こと。「やっつけ仕事」とも訳される。元来はフランス語で、「繕う」「(素人仕事で)作る、修理する」「こせこせ働く」「細かい仕事をする」「(不正に)細工する、変造する」を意味するフランス語の動詞"bricoler"に由来する。


とある。
何故、ここで「ブリコラージュ」という言葉を取り上げるのか。それは、この言葉こそこの度の原発事故を論ずるキーワードのような気がするからである。
かつて、人類学者のレヴィ=ストロースが、「日本人はブリコラージュを駆使しながら、ものづくりをする素晴らしい民」と言ったという。一方、原発建屋に消防庁の放水がはじまったときに、フランスの新聞では、建屋に向かって消防車が放水をしている写真が載せられて、記事の中には、「これぞブリコラージュ!」と書いてあったという。どの意味で使ったのか分からないが。以下、『大津波と原発』(中沢新一、内田樹、平川克美鼎談)等を参考にして述べていきたい。

福島原発建屋には青空の絵のようなものが描かれていることは、多くの人がテレビ等で何度も見ていると思う。

第一


これは日本人が、原発が安全・安心なものであることを示そうとした象徴的なものであろう。中沢新一は言う。

エコロジーが、原発の存在を前提として進んでいたところがあります。これでは「エコ幻想」として批判されてもしょうがないなと思うくらいです。とくにセレブできれいなライフスタイルとしてのエコロジーがもてはやされると、背後でそのライフスタイルを支えている莫大な電力消費や、原発の存在があることが忘れられるようになった。その意味で今回の出来事で、エコロジーが思想として、現代の人類が抱えている問題に本当には適合しなくなっちゃっているんじゃないかという疑問すら持ちます。


立ち入り禁止区域の無人の福島県双葉町には、「原子力 正しい理解で豊かなくらし」と今でも看板が虚しく掛かっている。
また、ダチョウが避難区域の無人の町を闊歩している写真を見た方も多いと思う。このダチョウは原発のマスコットキャラクターとして、福島第一原発内で飼われていたのが始まりという。

ダチョウ

以前、本ブログで紹介したように、寺田寅彦は自然の持つ二面性を、「巌父のごとき自然」と「慈母のごとき自然」と言った。日本人は「巌父のごとき自然」による自然の脅威も台風一過、秋晴れで、忘れてしまおうとする。民族の記憶にしようとはしない。昔の貞観大地震(八六九年)は言うに及ばず、明治と昭和の三陸沖地震の大津波ですら、記憶として伝承されていない。
自然災害ばかりではない。かつての大阪・池田小学校の事件も、津波による石巻の大川小学校の惨事も、校舎を取り壊して記憶から消そうとする。二度と思い出したくないと言いながら。マスコミも知識人も政治家も皆、そのノイジィ・マイノルティに何ら反論しない。さらに遡れば、広島の原爆死没者慰霊碑に書かれている「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」というように、誰が誰に言っているか分からない形になってしまう、いや、「してしまう」という表現が適切かも知れない。

ブリコラージュの民なのである。「水くさい」という日本独特の思想も底流にあるのだろう。
だが、この思想では原発問題は一歩も先に進まないのである。原発は、日本人が得意とするブリコラージュでは対応できないことだったである。

(2)安全神話─モノテイズム(monotheism)─ 一神教と原発

日本人は、危険・危機に関して何も備えないことによって、安全性を世界に向かってアナウンスし続けてきたのではないだろうか。東電経営者側だけではない。危険性を口にし、安全対策を構築しようと計画した途端、「そんなに危険なのか!」という声を浴びて安全対策計画は吹き飛んでしまう。
中国の公の船が堂々と南西諸島に侵犯しても、ロシア機が領空ぎりぎりに飛来しても、「自衛隊…」と言った瞬間、軍国主義と決めつける。中国もロシアも日本を攻めては来ないと信じることによって、国防ということは考えない民である。いざとなったら盟友であり、トモダチである「慈善団体」アメリカが助け、守ってくれると能天気に信じる民である。
上記鼎談で、中沢がふと漏らした言葉

原子力は一神教的技術なんです。


に内田が強く反応し、読んでいた私も釘付けになった。
内田は言う。

中沢さんが言うとおり、やっぱり原子力というのは、一神教における神に類するものですね。


さらに

日本人というのは、一神教的な神のようなものについては、これをどう扱うかについてのノウハウをぜんぜん持ってないんですね。


興奮したように内田は続ける。

一神教の文明の中には、恐るべきものをどうやって制御するかということについては伝統的なノウハウがしっかり血肉化していると思うんです。(中略)日本人は日本人独特のしかたで荒ぶる神を制御しようとするんだけれど、「恐ろしいもの」を「あまり恐ろしくないもの」と見境がつかないように「ぐちゃぐちゃにする」というのが日本的なソリューションだから。
フランス人が見たときに、原発処理のやり方を見て、これは「ブリコラージュ」だって言ったっていうのは、よくわかる。「荒ぶる神」を鎮める儀礼をしているはずなのに、神官もいないし、儀礼もないし、聖典もないし…びっくりしたと思う。


内田の

やっぱり神というのは、原子力みたいなもんですよね。生態圏の中に存在しないのだから。


という呟きに、中沢は

そのとおり。怒りとともに生態圏をぶっ壊しちゃうんですよ。ホレブ山(註:シナイ山のこと)の燃える神に水かけたってダメなんですよ。そういう原子力みたいな神を前にして、ユダヤ人は宗教革命をやらざるを得なかった。ですから、一神教の思考にはこの神の扱いがわかっていた。
そこでフランスなどはたいへんな原発推進国で原発大国ですから、彼らはこれを自分たちの社会に持ち込むときも最初から怒れる神を扱うように慎重でした。ものすごく危険な神を自分たちの世界に持ち込んで、熱を出させようとしているのを知っていたんです。


と答えている。
原子力は一神教的であり日本人はその荒ぶる神を鎮める方法を知らなかった。建屋に青空の絵を描いたりしてフレンドリーさを示そうとした。ダチョウも然りである。中沢が語る。

クラシックの演奏に喩(たと)えれば、「こうやったらうまくショパンを弾けます」とか、「チャイコフスキーはこうやって弾いたらうまくいって、そしてコンクールに入賞できます」という程度の理解でしかない。
「この音楽は人間のどういう部分から、どういう原理をとおして生まれてくるのか」という思考がまったくないまま、日本はここまで来てしまった。
明治以降、ヨーロッパの科学・技術文明や経済システムや国家機構などを取り入れたんだけれども、いつも理解は表層だけでとまってしまった。
問題は、じつはこの原理の問題にあるわけです。この原理というものに対して科学者も技術者も手つかずのまま放置して、無思考のまま来てしまったということでしょう。マニュアル読んで原発を使ってるみたいなところが見えてきてしまう。


寺田が言った「巌父のごとき自然」を見ないようにしてきたこと以上に、臭いも色もない、また生態圏の中に存在しない「原子力」というものを、何も正面から考えてこなかったのである。いや、考えることが出来なかったという表現が正しいだろう。
原発推進の人間も、脱原発を唱える人間も、正面からモノテイズム─ 一神教について考えなくてはならないのではないだろうか。ブリコラージュでは対応できないのである。

ブリコラージュ─突き刺さる言葉である。

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Appendix

プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

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