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「○○○」を恐れて「△△△」をやめる─虚無主義・冷笑主義・行き着く先は?─


「○○○」を恐れて「△△△」をやめる

─虚無主義・冷笑主義・行き着く先は?─










帰宅が深夜11時でも午前零時でも、私をじっとじっと待ち続け、玄関のドアを開けるとすぐそこに立っている。馬鹿と言ってもいいほどの忠誠を尽くす。その忠実さ、善良さ、情けなさがたまらなく可愛いのが愛犬である。07年、イスラエルに行って帰国したとき、深夜に星空を見上げて遠吠えしていたことを聞き、こみ上げるものがあった。


先日、友人から贈っていただいた雑誌『Journalism』の裏表紙にジャーナリズムの名言として「どの政府も嘘をつく。政府について知るべきことは、これに尽きる」(All you have to know is two words, 'governments lie')( Journalism 238号 朝日新聞社)とは対極に犬がいる。彼ら「犬族」は絶対に嘘はつかないから。嘘をつかないどころではない。義理堅く、けなげである。「KY」とは正反対に、一緒にいる人間の気持ちを一生懸命汲み取ろうとする。家内とは家内の速さに合わせて歩き、90歳の義父には彼のスピードで歩く。そして待ち構えて私とは早足で歩く。私は愛犬マーとは無防備で付き合う。マーも私には無防備に接してくる。今回は愛犬マーを通して、人間、この奇妙などうしようもない生き物について語ってみたい。








黒柴の愛犬マーは現在7歳。父親「浪花黒天道号」はチャンピオン犬と「血統書」には書かれている。母親は「百合姫号」と書かれている。2年ほど前から、「マーちゃんはおっちょこちょいだな。電柱にぶつかったり、足を踏み外したりして」という会話が我が家で交わされた。そして次第に、というよりは急に左目が白濁し始めた。近くの動物病院に連れて行くと白内障だと診断され、専門医に連れて行った方がいいと言われた。昨年夏、動物の眼科専門病院に連れて行き、検査を受けた。足からカテーテルを入れての検査が約1時間続き、その後コンピュータ分析を見ながら説明を受けた。結果は左目は網膜が反応していない、つまりほとんど何も見えないこと、手術しても回復はしないということ、右目も時間の問題だということを丁寧に説明された。遺伝的なこともあるらしい。
帰りの車の中で「お父さんがマーの目になってあげる。大丈夫だよ」と犬に言いながら、実は自分に言い聞かせていた。



そして予告通り、みるみるうちに右目も白濁し始め、両目ともほぼ完全に見えなくなった。
その結果どうなったか。驚くべきことに、現在は以前より注意深くなり、ほとんどぶつかったり足を踏み外すことなく、以前より速く、すいすいと先に立って歩いていく。家内は速くて着いていけないと言うほどになっている。まるで物体が見えるように、他の犬を察知し元気に吠えたり、私に甘えたりしてくる。

愛犬の自慢話を延々と書いたわけではない。ここからが本題になる。
人間が、いやこの私がもし失明したらどうだろうか。今まで見えていたものが次第に見えなくなってきて、ついに何も見えなくなったらどんな精神状態になるだろうか。
曽野綾子氏はかつて白内障と診断されたときの、自らの心理描写を次のように書いている:

今の状態のままで生きているのなら、私はずっと息苦しいままで暮らさねばならない。そう思っただけで私は恐怖で我を失った。ほんの数分の間に私は自分の体がばらばらになるような気がした。そして私はいつの間にか、自分の体が現実のこの世界から離れて、一つの薄汚い滝の向うの世界に出てしまったような気がした。(中略)この息苦しさから逃れられるのは、本当のところ生きることをやめるよりほかはなかった。
(『贈られた眼の記録』朝日新聞社)


(なお、曽野綾子氏はその後、手術を受け無事成功された)









人間は失明するくらいなら、「自殺」ということを考えるかも知れない。何故、「自殺」を考えるだろうか。何を求めてそうするのだろうか。年間3万人以上、交通事故より多いと言われる「自殺」。
人間は何故、自殺するのだろうか。言うまでもなく、生きることに虚無的になり、自らを冷笑し、絶望し、追い詰められ、これ以上生きていたくないと考えて自殺するのであろう。いつもは遠ざけ、触れたくない「死」ということを逆に求め、その結果が自殺である(ここは池田晶子を大いに参考にしてみる)。
何故? 死ねば、生きなくてすむと思うから自殺するのである。生きなくてすむために、自分を殺すのである。自らを殺せば無になり、楽になると考える。しかし、楽になると思っている自分がないのだから、楽になることも、当然、ない。つまり、生きている自分が一方的にそう思っているだけであると池田晶子は言う。
生きなくてすむために、自分を殺す。



人は「苦しみ」を恐れて「生きること」をやめる。初めから社会は不備なのに、そのような社会には自分はいられないと言って自殺する。
こんな愚かなことを犬は絶対にしない。失明しても生きることからマーは逃げない。マーはひたすら生きている。今まで以上に利口になった(と飼い主は思う)。

「苦しみ」を恐れて「生きること」をやめるという自殺だけではない。「死別」を恐れて「結婚」しないも然り。ふと考えると、この「○○○」を恐れて「△△△」をやめる、というケースが世の中に蔓延しているような気がする。たった一度の死であり、人生である。もっと生きていることを大事にしなくてはいけない。「死なれる」のを恐れて「犬猫を飼う」ことをやめる人もいる。だが、悲しむことを恐れて、愛することをやめるというのは如何なものか。突き詰めれば、どうせ死ぬんだから、生きるのは虚しいということになってしまう。人生は決してそうではない。









いっちゃん



私にこんなことを思わせ、教えてくれる愛犬マーの力は凄い。いやいや、マーだけではない。今すぐそばで膝の上に乗るタイミングを見計らっている愛猫いっちゃんも、軒先に雨の日はずぶ濡れになって、風の日はひたすらじっと体を丸めて、毎日餌をもらいに来る野良猫のモッ君も皆、凄い。一生懸命生きようとしている。



「友愛」だの「マニフェスト」だの奇妙なことばかり言う人間たちは、もっともっと動物の真摯な生き方を見習わなくては。親を殺したり、我が子を殺したり「人間とはとても思えない」と報道される事件が後を絶たない。だが、動物はそんなことはしないので、この表現はおかしい。彼らは動物でもないのだ。この世で最も難しい仕事・一人の人間を心身ともに一人前に育てるという仕事を放棄した人間は動物でもないということになる。今世の中に恐るべき狂気、烏滸の沙汰が浸透しつつあるのではないか。これは何も日本に限ったことではない。

あるとき知人から、日本の舵を取る政治家もまた知識人も財界人、いやほとんどの国民が今は皆、「風呂上がりの顔」つまりつやつやした顔つきをしていないかと言われた。自分が以前言っていたことにこだわらないことを「風呂上がりの顔」と彼は評したのである。つい最近まで言ったり書いたりしたことを何とも思わずに否定するようなことをつやつやした顔つきでTVで、新聞で、書籍で平気で語る。恐らく恥ずかしさもプライドもないのだろう。本来のプライドとは、他人に恥じることではなく、自分に恥じないことである。自分に恥じなければ、他人にどう見られているかは問題ではないはずである。

恥も外聞もない、この「空気」が蔓延してきているのではないだろうか。やはりこれは社会が、国が、どこか壊れている。ロシアの数学者マルコフの保全理論の応用で、「お見合い」を何回したら最高の相手が見つかるという「決断」について学術論文としたわが国の首相に、沖縄普天間飛行場の移設問題について5月末という期限が迫りその「決断」がどうなるのか。またまた「風呂上がりの顔」で何らかの弁解をするのだろうか。









塩の柱


モーセの「汝、隣人に偽証するなかれ」が真っ先に浮かぶ(日本だけではない。佐藤優が現在のアメリカを「ソドムとゴモラ」だと評していたが、的確であろう。アメリカだけではない。中国も「ソドムとゴモラ」と化していると言えよう)。

(『旧約聖書』創世記第19章24節~)主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。



今から百年前、オルテガは『大衆の反逆』の中で、ニヒリズムとシニシズムが進行して、責任の連帯性を失った市民社会が崩壊していくと予言した。現在、その最終段階にきているのではないだろうか。
私たちはいまこそ、立ち止まって考えるべきである。これではいけないと話し合うべきである。
そういう場を作らなくてはならないと考えて、「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」が活動しているのである(多少、大袈裟かも知れないが)。


現代社会の緊急テーマと言える「家庭論・家族論」について、4月3日(土)市ヶ谷アルカディアで弁護士・早川治子先生と語った。詳細は公式Webサイトで報告していく予定である。
参加者の多くの方から再び、みたび、このような議題で開催してほしいという声が強かった。この次は子育てを終えた親、高齢者を中心にした内容を検討していきたい。



次回シンポジウムは「医療現場の声」というテーマで、皆様が日頃思われている医療への疑問、質問、要望等々について、前回の2人の医師(内科医、外科医両者とも専門は「癌」)がそれぞれざっくばらんにお答えするというラウンド・テーブル形式で開催します。


日時:平成22年9月18日(土)午後6時~8時30分(開場:午後5時30分)
場所:市ヶ谷アルカディア(私学会館)

「もの言えば唇寒し」の昨今、堂々と本音で語りたいと考えています。
多くの皆様のご参加を心からお待ちしています。
なお、ご質問等はお気軽に予め当会公式Webサイトからお知らせください。
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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」

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