FC2ブログ

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://mar2002.blog92.fc2.com/tb.php/27-31286735

トラックバック

コメント

[C6] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

講演会要約

暗礁に乗り上げた今


I はじめに


この度こういう場を与えていただいたわけですが、テーマについてもご自由にということでした。政情がこういう動きになる以前でしたが、あまり迷わずテーマを「暗礁に乗り上げた今」としましたが、今となってはドンピシャ過ぎるテーマで、別のテーマにした方がよかったなと反省やら後悔をしなかったわけではありません。
ですが、引き受けた以上、至らない点だらけだと思いますが、これから始めさせていただきます。これからお話しする内容について、私は所謂評論家でもなければ、専門分野でもありません。間違ったことや浅はかな知識の部分が多々あると思いますが、予めご容赦いただきたく存じます。
なお、パワーポイントというのは、紙芝居のような気がして基本的には、大人の方々に使う方法ではないと思っていますので、敢えてホワイトボードだけを用意していただきました。
さて、私はもう15年以上前のことですが、『発言者』塾に設立から関わって参りまして、今日に至る塾生でもあります。15年間、教えていただき、たまには塾が終わった後での酒場で意見の対立などもあったりもしますが、みっちりと仕込まれた人間ですので、どうしても「師」の習性が身に染みていると思います。
本日は、
(1) 言葉と「自分」の位置づけについて
(2) 暗礁に乗り上げた日本として特に、日本の教育─「ゆとり教育」について
(3) 官僚について
(4) 報道への留意点─日本経済新聞を中心にして
(5) 道徳について
(6) 暗礁に乗り上げた中国について
(7) (時間があれば)暗礁に乗り上げたアメリカと原爆投下を謝罪しない理由について
(8) まとめ
という順番で拙い話ですが、約2時間話して参ります。

初めに大切なことを2つ把握しておいてから本題に入りたいと思います。

まず「思想が歴史を変えたことは一度もない」ということは把握しておくべきことです。ですが、いい続ける必要性が人間にはあるのです。人間はホモ・ロクエンス(homo loquens言葉を使う動物)です。言わなければ、人間を放棄したことになります。ですから、このように人々が集まる場が非常に大事本会と私たちの NPO法人(俗称)「糺の会」、この双方のNPOの共通点の一つは、言葉を使う動物として、「教育」の大切さを言い続けるという点だと認識しております。
その「言葉」ですが、大事なことは意味を正しく理解した上で使うべきであるということです。そうでないと、あとで大きな認識の違いが生じる危険性があるからです。
これから、いくつかの言葉について簡単にその本来の意味を再確認しておきたいと思い、レジュメに使う頻度が高い6つの言葉をあげてみました。7番目にその他としていくつかあげてみます。

(1)言葉の本来の意味
言葉は、一旦他の国の言語に置き換えるとはっとすることが多くあります。
教育:英語でいうeducateはラテン語のEx―「外へ」+ducere「(資質を)外へ引き出す」から来ています。つまり、導くという意味です。才能・能力を導き出すこと、これが本来の教育だと認識しておく必要があります。
歴史:英語でいうhistoryは古フランス語、さらにラテン語historiaに遡り、それは「物語」storyと同義です。個々の人間が作る物語の蓄積が歴史であると考えていいと思います。ちなみに、国の歴史を引き継ぐ民を「国民」と言います。
伝統:英語でいうtraditionはラテン語trans―「通して」+dere―「与える」から来ていて、意識して継承するものを意味します。ちなみに意識せずに継承されるものを「慣習」customといいます。
学校:英語でいうschoolはギリシャ語でschole、つまりleisure employed in learning,要するに「余暇」、「ゆとり」という意味です。「ゆとり」教育の否定が声高に言われていますが、ゆとりのない学校は本来、学校ではないのです。
改革:英語でいうreformですが、「革」という漢字の本来の意味は「動物の皮を剥ぐ」ということです。この言葉の形容に「抜本的」とつけることがありますが、抜本とは「根を抜く」ということです。非常に残虐な行為を表しています。簡単に使うべき言葉あるいは、使える言葉ではないということが分かると思います。
経済:英語でいうeconomicsを福沢諭吉が「経済」と訳した言葉です。本来は、ギリシャ語で Oikos-「家」+nomos-「法」という意味から来ています。古代ギリシャの奴隷制の下での大所帯の「家」の運営法を指した言葉です。Ecoというと正義の御旗のように使われていますが、本来の意味はこうです。一方、「経」という漢字は、治めるという意味であり、したがって「経済」とは、「世をおさめ、民を救う」という意味です。弱肉強食とは本来正反対の意味です。

他にいくつか今日のテーマに関した言葉をあげてみます。
暗礁:本日のテーマにある暗礁の「礁」という字の意味は、「水面に隠見する岩で、見えがたいものであるから暗礁という」(『字統』)とあります。ちなみに、舟がこれに触れて進退しがたいことを「座礁」といいます。
保守:本来、保守とは歴史を保守することを言うはずです。アメリカは元々非歴史的で設計主義の国です。したがって、保守=親米ということは大きな矛盾があるということにお気づきのはずです。
観光:これについてはお手元のブログのコピーをご覧いただきたく存じますが、国のまつりごとを司る人間が、自ら視察して歩いて、政治がうまく機能しているか、あるいは優秀な人材はいないかを探すという、国家にとって非常に重要な任務が観光の語源です。現代の為政者、リーダーがどれだけ現場のことを把握しているかということを考えれば、非常に深い意味を持つ言葉だということがお分かりだと思います。
組織:共通の目的を共有した者たちの集まりと定義しておいていいと思います。単なる集団ではないということです。
ユートピア:utopia はギリシャ語のウ・トポス(あり得ない場所)という意味です。日本語としてもよく使う言葉ですが、実際にはあり得ない場所・事柄を指すということを把握しておいていただきたいと思います。ただ、実現不可能でもそれに向かう努力は続けなくてはいけないということも大事なことです。

ざっとこういう言葉の意味を把握した上で使っていきたいと思います。

次に
(2)「自分」の位置づけを捉えておきたいと思います。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、鬼平に

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」


と言わせる場面が度々あります。人間はその時々で置かれている場面・状況が違うということを簡潔に述べていると言えます。実際に私たちがその時々置かれている場は、どういう場と分析されるかということを簡単に申し上げておきます。
例えば、この会場におられる方々について考えてみますと、集団でおられます。人間は、個人でいるときと集団の場合に分かれます。では、それだけかというとそうではないことは、簡単に気がつきます。集団か個人かという軸以外に、公的か私的かという軸があります。図示します。



個人が公の場にいるとき、そこでは人格ということが生じてきます。集団で公の場には規律(秩序)ということが生まれます。私的で集団の中にいるときは、帰属ということが問われます。また、個人で、私的にいるときは感情ということが出てきます。そして上半分が顕在(Overt)であり、下半分が潜在(Covert)です。これらの外側がカオス(混沌chaosギリシャ語)の世界です。私たちは刻々と、これらの場を動いているわけです。そしてどちらかというと上半分が重い(重要)です。
昨今は、この第4象眼にある個人で私的な部分が迫り出してきて、そこでの論理(感情)で世の中を語ろうとするので、例えば規制緩和の大合唱などがあったと思います。元々、公で集団の中で生まれる規律・規制を緩和するということ自体、矛盾する行為です。官民挙げて「自分らしく生きる」キャンペーンがこの約20年にわたって展開してきました。自分の部屋を、自分の好きなインテリアで飾り、自分の好きな音楽をかけ、自分の好きな料理を、好きな食器で食べる。好きな時間に起き、好きな時間に寝て、好きなときに、好きな場所に、好きな友だちと(あるいは恋人と)旅行する。すばらしい。これが自由だ、人権だと言ってきました。図を眺めながら考えると、如何に間違っているかお分かりになるかと思います。


本会の設立趣意の中に「道徳教育」ということが掲げられていますが、自らの私徳を考えるときに、エスィカル(ethical 倫理的)というものが生まれ、自分の公徳を考えるときモーラル(moral 道徳的)ということが生まれると考えます。道徳については後ほど少し掘り下げてお話したいと思います。

II 暗礁に乗り上げた日本について─主として教育問題


日本が暗礁に乗り上げたことを否定される方はまずいないと思います。その中で、今日は教育問題から話して参りたいと思います。国家百年の計をもって語られるべき重要なテーマです。「教育」は日本人の「あたま」と「こころ」に関わる非常に重要でかつ重い問題です。ただ、最初に教育問題─ この問題はアポリア、つまり「解き難い問題」だということを自覚しておかなければいけません。古代ギリシャの昔から、教育問題は知識人にとって、スタムブリング・ブロック(stumbling block躓きの石、障碍物)であると認識されてきました。教育では青少年に「真・善・美」の基準を知らせることが決定的に重要です。例えば「数学」という教科が美を教え、「歴史」や「国語」が善を教えるというようにです。しかしその教える教師にたいしては、誰がその教師を教育するのでしょう。「教育者を教育する」という課題に解答を与えることなどできはしません。そこから古代ギリシャの賢人は、教育問題には触れない方がいいと言ったわけです。
ですが、厳密でなくても、曖昧とはいえひとまず納得できる暫定的な解答ならば、示唆することができるかもしれません。なぜなら、教育問題には数千年の歴史があるからです。そう自覚してかからなくてはいけないと思います。

教育の目的の中に、学ぶあるいは学問を探究するということがあります。
かつて陽明学の祖・近江の聖人と称えられた中江藤樹(1608-1648)が

「学問とは母を看ることなり」


と言ったことは、ブログに書かせてもらいました。彼は、老いた母親の世話をすることこそ、本来の学問だと言いました。身近において生じることはつねに具体的で、それに対応できないような学問の抽象は無意味だという考えです。言い換えれば、学問とは、学ぶとは生活感覚と一致したものだということ、これも自覚しておく必要があると思います。

具体的な話に入ります。
言葉の定義のところで「学校」の原義は「ゆとり」であると言いました。では、「ゆとり教育」と掲げていたことは正しかったのではないか、という疑問が生じます。本日は教育の中で、この問題について考えたいと思います。この「ゆとり教育」と対になっているのが「週五日制」です。というよりも、「週五日制」の方が歴史的には古く、1970年代に日教組が求めたことです。もちろん「ゆとり教育」とは無縁の、教員の文字通り労働者としての待遇改善運動でした。しかし学校には夏、冬、春の長期休業があり、教員は、その期間にまとまった休みをとることができる。それに加えて土曜日まで休もうというのです。まして民間でも週休二日制を導入している企業が数%にすぎない70年代のこと。さすがの当時の文部省も、日教組の虫の良すぎる要求を呑みませんでした。80年代に入り、再びこの問題が蒸し返されることになります。外圧がかかったのです。
80年代なかばに、アメリカからの外圧で週休二日制が企業に普及していきます。その影響がやがては教育の世界にも及んでいき、『学校週五日制』を後押しすることになるのです。背景には、膨れ上がる貿易赤字に危機感を抱いたアメリカが、日本に強く内需拡大を求めてきたことがあります。時の中曽根政権は、民間活力導入による公共事業などさまざまな内需拡大策を講じましたが、その一つが週休二日制の導入でした。そして、84年中曽根総理直属の諮問機関「臨時教育審議会」(所謂臨教審)が設置されます。そのメンバーの中で、経済界の意向を汲み松下幸之助氏が主宰した政策グループ「京都座会」が五日制を強く主張しました。
経済界の狙いは、学校が土曜日が休みになることは、裏を返せば塾や予備校といった教育産業に巨大なビジネスチャンスをもたらすことになる点にありました。こうした思惑を秘めて、「教育の自由化論」(教育への市場原理の導入)が叫ばれていくわけです。皮肉にも経済界と日教組の利害が一致した週五日制。文科省が言ってきた「子どものためのゆとり教育」は苦肉の表現に過ぎず、「はじめに五日制ありき」だったわけです。このあたりは、ジャーナリスト森健氏が『「ゆとり教育」A級戦犯は誰だ』という論文を05年の文藝春秋5月号に載せています。本質的な議論を避け、素人同然の知名人から成る諮問委員会を形式的に開き、彼ら官僚が言うところの「霞ヶ関文学」の一つを作っていったのです。しかも何の悪意なくです。

現在は、「ゆとり教育」の見直しが叫ばれ、「学校週五日制」も私学では完全に下火になりました。当時、文部省で初等中等教育局長を務めていた辻村哲夫(現・独立行政法人国立美術館理事長)は悪びれもせずに、こう明言しています。

「“ゆとり”というのは、教師にとっての精神的・時間的余裕ということなんです」
「ええ、子どもじゃない。教師です。それは教育課程審議会の議論の中にも出てきます」

と平然と言っています。文藝春秋の論文の中で、この人物を「ゆとり教育」のA級戦犯の一人としています。

先日、当時「ミスター文部省」の異名をとった寺脇研・大臣官房政策課長(当時)を私たちの『発言者』塾で呼んで話を聞いた際に、あの政策はどうだったのかと聞くと、「あれは最悪の法です」と平然と言っていました。あくまで責任者は自分ではなく、任務を忠実に遂行しただけだということなのでしょう。

前の文部省も今の文部科学省も、馬鹿げた失策を繰り返している組織ですが、これまで一度として自らの失策を認めたことがありません。失策を認めると権威が落ちる、言い換えると、嘘にもとづく権威で国民を支配しようとしているわけで、これほど国民を馬鹿にしていることはありません。これは何も文部科学省特有のことではないことは、皆様すでにお気づきだと思います。

話が横道に逸れますが、最近、やたらに元官僚や国のブレーンだった人間の所謂暴露本が出版されています。2,3あげてみます。
『資本主義はなぜ自壊したのか』という本は中谷巌という学者というより構造改革、グローバリズムの旗手と言った方が知名度が高い人物の著書で、懺悔の書として十数万部売れたようです。これについては4月の私たちのシンポジウムで触れましたので、ここでは控えさせていただきますが、議論の内容はブログに全部掲載しています。
『高齢者医療難民』という本は医療制度改革の素案を作成する段階から携わった厚生労働省官僚と医者との共著です。
また、少し古くは『通商交渉 国益を巡るドラマ』という本があります。この中で日米構造協議を振り返り、

「それは『内政干渉』の制度化であった。米国は、日本の輸入拡大の障害となっている制度について意見がいえるが、日本は米国に意見はいえないのだ」

と、日米の立場が不平等であったと証言しています。この本は、通産省(当時)で交渉をした官僚・畠山襄の書いた本です。この人はJETORO理事長から現在は、国際経済交流財団理事長に渡ったことが、今週の日本経済新聞の記事から分かりました。ちなみに「日米構造協議」という名称そのものが日本側の確信犯的誤訳です。
これら所謂暴露本を読んだ後、読者はなぜ、今になって暴露本を書くのか。もっと早く、その当時、自分の意見を主張しなかったのかと思うはずです。ここで「官僚」という人間について考えてみたいと思います。

III 官僚について


その前に、なぜ「水戸黄門」や「遠山金四郎」というような時代劇番組を多くの人たちが好むのかということをちょっと考えてみたいと思います。水戸黄門らは「任せておけば安心」な有能で清潔なある種の支配者です。私たちは昔からその存在に憧れ、安定・安心を得たいという幻想を抱いていたと考えられます。それを踏まえた上で話を進めていきます。
太平洋戦争当時の国民のこのような水戸黄門幻想に対応して、軍部官僚も自分たちこそが国を背負ってゆかねばならないと思っていました。ちなみに言えば、今の官僚も主観的心情としては同じように思っていると考えられます。何度か言いましたように、彼らには悪意はないのです。軍部官僚にせよ、戦後の官僚にせよ、そういうところが逆に、いちばん恐ろしいところです。道義心・道徳心が欠落しているというならまだいいのですが、彼らは普通の人々で、躊躇わずに、というよりは、むしろ自信を持って動く人々です。

(1)軍部官僚について考えてみます。
太平洋戦争の、最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任であると言えると思います。軍部官僚が真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかでしょう。
軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗だったことが重要な点だと思います。軍国主義のためではなく、官僚主義のために三百万の日本人と一千万以上のアジア人が死んだと言えましょう。もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な人間であったとすれば、そもそも日本は戦争に突入していなかったかもしれませんし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれません。
戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、その延長で軍隊かどうか疑わしい自衛隊を極度に恐れますが、それは敵を取り違えているであって、真に注意すべきは軍部官僚の責任だと思います。軍部が戦争を継続したのは、勝てる見込みがあったからではなく、ここで敗北を認めれば、軍の面子が潰れ、なぜ戦争をはじめたのかと責任を追求されるからであって、そういう嫌な事態を少しでも先延ばししたかっただけのことと断言できるのではないかと思います。
今度スタートした裁判員制度も同じ構図になります。時間がありましたら最後の方で触れてみます。
よくご存知のように在米日本大使館員の怠慢のため、宣戦布告が遅れ、真珠湾攻撃を宣戦布告前の攻撃にしてしまった大失敗を、外務省が五十年近く正当化しつづけたことは有名ですが、この大使館員は、何ら処罰されず、その後順調に昇進して次官にまでなっています。
戦後はホラ吹きの代名詞のようになった「大本営発表」というのは、軍部官僚が敗北を国民に対してのみならず、味方の軍にも隠した典型的例です。そのため、敗北の原因は追及されず、敗北を招いた責任者も明らかにならず、したがって、同じパターンの敗北が何度も何度も繰り返されることになりました。

後年、サリドマイドのときやエイズのとき、国民を薬害から守ることよりも厚生省共同体の利益と面子を優先する厚生官僚も、国民のことなど念頭にないという点で軍部官僚と同種の人間であることは明らかですし、「週五日制度」導入後の学力低下への文部官僚の無責任ぶりも同じです。
このように、軍部官僚と戦後の官僚の両者とも集団として、あるいは組織として同じ共通の体質を持っています。共通の体質とは、次のようなことです。
軍部も省庁も、本来、国に従属する機関であって、国のため国民のために奉仕するのが任務ですが、そこから逸脱し、国から多かれ少なかれ独立した一種の自閉的共同体(ムラ)となって、「省益あって国益なし」と言われるように、しばしば国の利益よりもみずからの共同体の利益ないし面子を優先するのです。国のためにではなく、陸軍共同体のために陸軍は戦い、海軍共同体のために海軍は戦っていたわけです。

(2)終戦直後の話に移ります。
終戦直後、配給以外の米を食べることを拒否してある裁判官(山口良忠判事)が餓死したという事件がありました。国民の多くは有能で清潔な官僚がまだいたという幻想を持ったと思います。軍人に国を任せたら大失敗したことから、軍人幻想は放棄しましたが、それでも、有能で清潔な支配者に支配されたいとの願望が潜在的にあったところに、軍人幻想に代って、有能で清潔な官僚という幻想に取り愚かれ、この話は神話化されていきました。私はここに大いに問題を感じます。
と同時に、新約聖書のある部分と対比してしまいます。マルコによる福音書2-23にこういう部分があります:

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」


ユダヤ人の安息日というのはただ、みんなで休みましょうという日ではありません。金曜日の日没から土曜日の日没まで、労働してはいけないとかいろいろと決まっていましたし、現在もイスラエルではその様子を垣間見ることができます。部屋の電気をつけたり消したりすることさえ、自分ではしないという人がたくさんいます。ましてや2000年前です。麦の穂を取ることは労働にあたります。それを指摘した人々に対し、イエスは法律は人のためにあるのであって、人が法律のためにあるのではないと断言したのです。
神話化され、英雄視され、美談になったこの裁判官も裁判官である以前に人間であり、人間であればほどほどの常識と人情を具えているべきですが、彼はそういう点が欠けていたのではないか。こういうコモンセンスの欠けた人物が裁くことにある種の怖さを感じます。同時に、こういう人を英雄視し、美談化することに躊躇いを覚えます。

(3)終戦直後から、10年近く経過した昭和29年から30年頃の話に移ってみます。
朝日新聞社発行の『週間昭和』を見ると、当時は力道山が現れ、自衛隊が発足し、洗濯機が出、自由民主党が生まれ、55年体制が以後38年間続くことになった時代です。
ここでお話しするのは、「ただより高い物はない」の典型的な例です。
戦後、世界的にみても例がないといわれるほど、日本人の食生活は大きく変わりました。特徴は日本型食生活から欧米型食生活への急激に変化したことです。
厚生省(当時)は伝統的な日本型食生活よりも欧米流栄養学に基づく食生活こそ望ましいと考えて、「栄養改善運動」に熱心に取り組みました。ご飯に味噌汁、漬物という「貧しい」食生活ではなく、パン、肉類、牛乳、油料理、乳製品という欧米流の「進んだ」食生活が望ましいとして普及に全力をあげ、その運動は予想以上の成功を収めました。これほどまでに成功した背景には、昭和30年代から本格的に始まったアメリカの日本に対する周到な農産物売り込み攻勢がありました。
これを一般に「アメリカ小麦戦略」といいます。アメリカは「世界のパン籠」といわれるほど、農業大国でもあります。戦前から小麦などの大量の農産物を諸外国に輸出し、世界中の食卓を潤してきました。
1953、4(昭和28、29)年は世界的に小麦の大豊作で、供給過剰から価格は暴落し、アメリカ政府は苦境に立たされました。大量の余剰農産物が発生し、政府が借りる倉庫代だけでも一日2億円、一部は路上に野積みしてシートをかけて保管という状態で、一刻も早くさばかねばならぬ状況で、政府と農民は危機感を持っていました。小麦は米よりも傷みが早く、大量の余剰農産物処理は時間を争う緊急課題となったわけです。
1953年1月、トルーマンに代わって大統領に就任したアイゼンハワー大統領の最優先課題は、まずこの大量の余剰農産物の処理でした。アメリカ大統領は農民票が決めるとも言われるほどその影響力は強く、カンザス州の農村出身であるアイゼンハワー大統領には、農民の期待に応えるためにも早急な余剰農産物対策が求められていました。
麻生首相の祖父・吉田首相は、政権基盤強化のためにMSA協定締結を決意し、池田勇人自由党政務調査会長を特使としてアメリカに派遣して、翌1954年3月調印しました。この時受け入れた小麦のことを通称、「MSA小麦」といいますが、その小麦を国内で消費するため、厚生省は学校給食ではパンとミルクの給食を定着させ、パン食普及などに力を入れ、「近代的」な生活推進のために活動をしました。パンに伴って、当然、肉料理、油料理、乳製品という欧米型になっていきます。食材の供給元アメリカの狙いはそこにあったわけです。将来を見据えた長期的戦略です。ですが、これは当時の厚生省や栄養関係者が等しく歓迎した流れでもありました。パン食や動物性蛋白質、油脂類の摂取増は「栄養改善運動」の基本で、そういう食生活こそ望ましいと考えていた、つまり日米が共に望んだ食生活の変化でした。高蛋白、高脂肪、高カロリーの芽は、アメリカの援助小麦の裏づけがあって生まれたわけです。アイゼンハワー大統領はMSA協定を改定し、PL四八〇法案(通称、余剰農産物処理法。正式名称、農業貿易促進援助法)を成立させ、余剰農産物処理をさらに強力に推し進める作戦に出ました。協定内容は、
(一)アメリカ農産物をドルでなく、その国の通貨で購入でき、しかも代金は後払い(長期借款)でよい。
(二)その国の政府がアメリカから代金後払いで受け入れた農産物を、その国で民間に売却した代金見返り資金の一部は、事前にアメリカと協議のうえ経済復興に使える。
(三)見返り資金の一部は、アメリカがその国での現地調達などの目的のほか、アメリカ農産物の宣伝、市場開拓費として自由に使える。
(四)アメリカ農産物の貧困層への援助、災害救済援助及び学校給食への無償贈与も可能である。というものでした(日本は(一)、(二)に飛びつき、アメリカの狙いは(三)、(四)でした)。
当時の愛知通産大臣は、「米国は好意的だった」「円資金の日本側使用分は農業開発を含む生産性の向上、防衛支持、地域的経済発展に使うということに双方の意見が一致した。この使途で日本側の期待していた計画は一応全部含まれているし、こういう使途はいけないといった否定的な意味での意思表示も全然なかったので、日本側が自由に処理し、改めて先方の了解を得る必要はないと思う。また日本側使用分は全額借款で、贈与は含まないが、借款でも一部は今後の交渉で非常に長期かつ低利のものが期待できると思う」(朝日新聞昭和29年11月17日)
と自賛しました。
こうして「アメリカ小麦戦略」の資金的裏づけが法的に保障されたのです。この資金を元にして「アメリカ小麦戦略」は本格的に始まったわけです。一方、日本側は全く資金要らずで農産物を受け入れることが出来、それを国内で製粉会社や食品関連会社に販売した売上代金の7割の約214億円の復興資金を得ることに成功しました。この交渉によって念願の愛知用水事業はその資金を得て、昭和36(1961)年完成しました。しかし皮肉なことにその愛知用水が完成した頃からコメ余り現象が顕著となり、減反を強いられるようになったのです。
安価な外国産小麦の大量流入で、太刀打ち出来ない日本の小麦生産農家は生産意欲をなくした。その裏にはアメリカ側の市場開拓費による、日本における小麦製品の大々的な宣伝活動があったわけです。この時受け入れた大量の小麦によるパン食普及によって、その後、コメの消費は減少の一途をたどり、日本人の食生活が顕著に欧米化していきます。コメからパンヘと急速に変化し、それにつれて副食も大きく変化しました。コメ増産の掛け声の裏でコメ離れ現象がその底流で動き出していたわけです。この協定調印の功労者は当時の農林事務次官東畑四郎ですが、彼は後にこう語っています:

「それはあの贈与小麦でパン給食を推進したりしたわけだから、私にもその意味では責任の一端はあると思いますよ。しかしこれは責任転嫁じゃないが、ここまで農産物の輸入依存を野放しにしたのは、その後の農政の誤りだと思いますね」


これもやはり確信犯的官僚の発言です。
「ただより高い物はない」の最たる実例です。現在は自給率27パーセントとまで言われるほど、アメリカという親鳥がいなければ生きていけないところまで来ています。
ご参考までに、そのときの朝日新聞の記事がお手元にあると思います。縮刷版から私が打ち込んだものですので、誤字もあるかも知れませんが臨場感は伝わると思います。アメリカが数段先を読んでいることがお分かりだと思います。また、今読むと北京放送も中々含蓄のあることを言っています。

(4)官僚についてのまとめに入ります。
日本の官僚または官僚組織の特徴はおおよそ次のようになります:
(一)官僚組織は、本来、国のため国民のためのものであるにもかかわらず、自己目的化し、仲間うちの面子と利益を守るための自閉的共同体(ムラ)となっている。
(二)しかも、その自覚がなく、国のため国民のために役立っているつもりである。
(三)共同体のメンバーでない人たち、すなわち仲間以外の人たちに対しては無関心または冷酷無情である。
(四)同じことであるが、仲間に対しては配慮がゆき届き、実に心やさしく人情深い。
(五)身内の恥は外に晒さないのがモットーで、組織が失敗を犯したとき、失敗を徹底的に隠蔽し、責任者を明らかにしない。
(六)したがって、責任者は処罰されず、失敗の原因は追及されないから、同じような失敗が無限に繰り返される、等々。

精神分析学者の岸田秀は、官僚が仲間の失敗を隠すのは、そうしないと共同体から除け者にされるからでもあると語っています。岸田氏はかつて、山本七平との対談で次のような興味深いことを言っています:

「江戸に北町奉行と南町奉行の二つの司法機関を設けて月毎に交替させていたのは実に賢明にして巧妙な処置であった。幕府は奉行所というものが自閉的共同体となりがちなことを知っていたのである。自閉的共同体となった奉行所は身内や身近な人の犯罪は見逃すであろうし、仲間が誤判(誤った審判のことです)をしてもそのことを隠して、正しい判決だと強弁しつづけるであろう。しかし、一ヵ月後には別の奉行所が事件を審理することになっていれば、そこに歯止めがかかる」

と。
さらに

「日本では、無能な上官をどうするかの対策が欠けていた。欧米の軍事組織を模倣しながら、肝心のところが抜けていた」

と言っています。
ここでもっと大事なことは、官僚が出現した責任の大半は国民にあること、国民が有能で清潔な支配者に支配されたがっている、または支配されていると思っていることがその種の官僚を出現させ、のさばらせる根本原因であるという点です。歴史・時間は逆戻り出来ません。北町奉行所と南町奉行所を作ることも出来ません。勿論、官僚は必要な存在です。
官僚の自閉的集団・共同体化を絶えずチェックして防ぐ。例えば、天下りを防ぐことや、入省したての若い官僚を地方の税務署長にするという悪習もやめる。人間、若いうちから人に威張る癖が身につくと、ろくなことはありません。それと新聞の役割が重大です。ということで、次は「報道への留意点」についてお話し致します。

IV 報道への留意点


昨今の新聞人は、欲も見栄もある普通の人である政治家や官僚をどのようにして国のため国民のために働くようにもってゆくか、という重要な問題を忘れています。彼ら政治家や官僚が聖人君子でないことを、単に非難していればいいというものではありません。
新聞の役割は重いと思います。
ここで新聞は古い、これからメディアの主流はテレビだという方も多いと思いますが、テレビにおいて流れ行く言語を差配しているのは、おおむね、新聞のヘッドライン(headline見出し)です。そのテレビ映像の方向性を定めているという意味で、現代における第一権力は、今から170、80年前のアメリカと同様に依然として新聞なのです。そして新聞とは、それをニュースペーパー(新紙)とよんでも同じことですが、「新しい記事の集まり」のことです。つまり人間にはニューズ(新しいこと)にほとんど無自覚に反応する大きな傾向がある、ということなのでしょう。しかし、翌年に記憶しているニュースはせいぜい五個ぐらいではないでしょうか。
かつて、J.S.ミルは1840年前後の英国について、

「毎朝、三千人もの英国人が空恐ろしいことに、同じ新聞を読んでいる。こんなことでは英国人たちの個性はどうなってしまうのか」

と歎いていたのですが、今は、我が国の大新聞の一つ読売新聞は、三千部はおろか一千万部を超えたと豪語しています。それどころかテレ・ヴィジョン(遠方からの映像)というものがあって、何千万人もの日本人が同じ映像に見入っているのです。その根底にある新聞の役割・責任は大きいわけです。

ここでは一例として日本経済新聞を採り上げてみます。
中国には「人民日報」という中国共産党の新聞がありますが、内容は全部ウソで、唯一ほんとうの情報は日付だけだと言われています。そこまで極端でなくても、新聞は読むとき注意すべき点があると思います。当然、新聞発行も営利事業として行われていますから、広告収入を増やし、利潤追求するわけですが、一方で公益性という点から、真実性、客観性、公平性が求められます。
日本経済新聞の特徴は、しばしば事実であるように映る「観測記事」を掲載するという点が、第一の注意点です。そして、逆三角形の上底の部分に煽りの内容が並び、読者にとって重要な内容とデータが最後に来ることがしばしばあるという点では、日本経済新聞はスポーツ新聞と似ています。
日本経済新聞の底流に流れる思想らしきものは、簡単で、「消費者にとってよいことは、日本にとってよい」と「アメリカが望むことは、日本の消費者(国民)も望む」。したがって、「アメリカが望むことは、日本にとってよい」という稚拙な三段論法です。



脱イデオロギー的な経済記事であるかのように見えて、実は日本経済新聞の記事には、何の根拠もない「日本は遅れている」というイデオロギー的な記述が入ってくることに注意すべきです。
例えば、民間主導はいいと言っておきながら、一方では、中国政府の指導には平然と賞賛します。
グレン・S・フクシマ(日系3世、アメリカ官僚で、学者でもあり、日米通商交渉や多くの場で活躍してきました)が

「グローバル・スタンダードが和製英語であると思う」

と言ったのは有名ですが、日本経済新聞は日本型経営が思わしくなくなった途端に、それまでの主義主張をかなぐり捨てて、終身雇用と年功序列を克服すると称して登場させた成果主義、グローバル・スタンダードを絶賛し、構造改革を煽り立てました。その結果、当然のことですが現在、会社として経営がかなり厳しくなっています。なぜなら広告収入が5割だったからです(朝日新聞、読売新聞は3割が広告収入です)。
日本経済新聞では経済と政治は切り離せるかのような論調がしばしば顔をだしますが、読者はそこにも気をつけるべきです。メディアについては、マーシャル・マクルーハンの『メディア論』は今でも名著だと思います。ご参考までに。

V 道徳について


本会の活動の柱の一つに、道徳教育の大切さを広く知らせるということがあると認識しています。
初めに述べましたように、自分の公徳を考えるときモーラル(moral 道徳的)ということが生まれると考えられます。
ここでは、私から2つのことを皆様に課題としてお考えいただくということにしたいと思います。その前に、「宗教」「道徳」「法律」というもののお互いの関わり方というか、構図的なことは把握されておられると思いますが図示してみます。これらは少しずつずれています。



宗教があって、その上に道徳が存在し、それを土台にして法律が存在するわけです。法令遵守が日本に馴染まない理由はこの辺りでしょうか。
ここでは2つの課題を提示してみます。
① 外部環境において不倫や不徳が紊乱しているのに、そういう価値教育をやっても無駄ではないか、というある意味で現実的な疑問にどう答えるか。
② 「特定内容」の倫理・道徳を生徒たちに普及させようとするのは、操作であり管理であり抑圧ではないのか、というこれまたある意味で現実的な疑問にどう答えるか。

この二つをクリアしておかないといけないと思います。もうすでにこの会ではお考えかも知れませんが、老婆心ながらあげさせてもらいました。「お前の考えはどうだ」というご質問なさる方がいらっしゃいましたら、質疑応答の際にでもお話し致します。

VI 暗礁に乗り上げた中国の現状について


北京大学に留学していた知人のパソコンが壊れ、彼が北京市内の量販店で新しい機種を買おうとしたときのことからお話し致します。
現在、北京市内のそういった店で薦める機種は、「ソミー」か「ペナソミック」の2つだということです。
ソニーではなく、ソミーで、パナソニックではなくペナソミックです。そのペナソミックの方が少し安いので、なぜソミーの方が高いのかを店員に聞いてみたところ、「ソミーに入っているソフトは本物で、ペナソミックは偽物がはいっているからだ」と説明してくれたというのです。それで彼は「ソミー」製を買って「殺菌ソフト」とかいう150円ほどのウイルス対策ソフトを入れたところ、自分のデータが全部消えてしまったというのです。翌日、その店に行って、前日売った店員に事情を話したら、「それはお前のパソコンが古すぎるからだ」と平然と言われたというのです。昨日買ったことを知っている上で、です。
また、彼が金を被せた歯が壊れて歯医者に行ったとき、金がすり替えられないように医者の後をついて歩いたとも言っていました。
偽札が機械で発見されそうならその機械の偽物をつくる等々、国をあげての偽物天国、騙す人間より、騙される方が悪いという発想の国です。一時、餃子事件が話題になりましたが、富士の源水だといって、川の水をペットボトルに入れて売るのも平気です。
現在、日本に帰化し活躍している石平氏が北京大学から日本に留学して来た当時、東京の公園で座っていたとき公園の鳩を見て、平和の使者とは思わず、「食べたい」と思ったと後日書いています。
最終的にこの世に残るのは中国人ではないかなと、私は密かに思っています。とにかく彼らはある意味でわれわれが決して真似が出来ない偉大な民族だと思います。

彼らの根底にあるのはあくまで、現世です。知識人であればあるほど、来世とか神様は迷信だと思っています。でも、彼らの死者を弔う儀式は盛大ではないかと思われる方も多いと思います。ですが、それは来世信仰というわけではなく、むしろ子や孫たちが風水のいいところに親やおじいちゃんおばあちゃんを埋めれば、自分たちに幸福が来るという現世の利益狙いです。風水は死んだ人間のためではなく、いま生きている人のための風水です。おカネというものによって中国人の信じているものは現世での享楽です。悩みに悩んで食事が喉を通らないというのは、日本的表現です。中国人は悩みに悩んでも食事はきちんととる。
「民は食を以って天となす」
という諺通り、食が神なのです。
したがってさきほど言いましたように、中国人はどういう場合でも、どんな歴史的な大混乱や悲劇が起きても生き残ることだけは確実だと思います。
四川での大地震で肉親を失って悲しみに打ちひしがれている人が、三食もりもり食べる。彼らはそれが理解出来ないという日本人を逆に理解出来ません。キリスト教を批判し、宗教を否定している国ですが、多くの若者がキリスト教式の衣装で結婚式をあげます。
日中友好の「友好」というのは、日本を利用するという意味で、本来の意味はどうでもいいと言います。「和平」はあっても「平和」という言葉がない国です。中国語で「やさしさ」を表す言葉は存在せず、コツコツと働く者は中国ではバカと同類にされる国です。
孔子を教えながら賄賂を平然と受け取る教員。
それを見て育つ子どもたち。
かつて孔子が生まれ、儒教があった国ではないかと思われると思いますが、これまで孔子が説いた道徳の概念が、中国には定着したことはないと言われています。
現実のおカネというもの以外では国というものが崩れているのが現状です。
日本人と中国人の顔立ちは似ていますが、根本的に大きく違う点があることを認識しておくべきです。これは是か非かではありません。、現実をきちんと把握することが大切です。

VII 暗礁に乗り上げたアメリカの現状について


急いでアメリカについて話を致します。長市の田上市長は

「アメリカのオバマ大統領が「核兵器のない世界」を目指すと明言しました。『核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的な責任がある』という強い決意に、被爆地でも感動がひろがりました。核超大国アメリカが、核兵器廃絶に向けてようやく一歩踏み出した歴史的な瞬間でした」

と今月9日、長平和宣言の中で述べています。大きく報道されました。元来のひねくれ者なのか、私はこのとき、何となく不快感というか嫌な気持ちになりました。少し冷静に考えてみますと、2つのことに行き着きました。
1) 一つは「まずは隗より始めよ」と言う言葉です。物事は、まず言い出した者が着手すべきであるという意味です。なぜ投下した国アメリカに対して率先して廃棄すべきだと宣言しないのか。
2) 二つ目は「アメリカは原爆投下をなぜ謝罪しないのか」ということを正面から堂々と問題視しないのか。
この二つは、底流は同じです。オバマ大統領という論理的帰結から絶対にアメリカ大統領にはなれない人物が大統領になった、これは究極のポピュリズムです。その大統領に阿るが如くの宣言をするという卑屈さに強い不快感を抱いたと考えられます。
別に私が不快感を持ってもどうと言うことはありませんが、アメリカのことに触れる前に、何故かこのことについて話したかったものですから。

では、なぜ「アメリカは原爆投下を謝罪しないのか」について考えてみると、次のような論理だと思います。
① 原爆投下を謝罪する⇒他民族を不必要に大虐殺したことを認める
② それを認める⇒アメリカ先住民を不必要に大虐殺したことを認めざるを得ない
③ それを認める⇒アメリカ国家が不正の上に成り立っていることを認めざるを得ない
④ それを認める⇒正義の国であるという幻想にもとづいているアメリカ国家が崩壊する

こうした論理的帰結からも、アメリカの大統領はアメリカ国家を崩壊させるようなことを言うのは許されないのです。
「米国のやることは絶対に正しい」という独善性、「米国だけが正しいことを実行する軍事力をもっている」というパワー信仰と、「正しくあらねばならない」という米国人を覆っている強迫観念であるPC(ポリティカリー・コレクトPolitically Correctness)とは表裏一体であるということ。まさに原理主義の国です。そして「アメリカの正義」ほど、無責任で信用できないものはありません。

「つねにポジティブに生きなければならない」との強迫観念つまりポジティブ・シンキングが今のアメリカを覆っています。ポジティブ・シンキングの人たちに共通しているのは、自分の生き方、考え方が絶対に正しいと思っており、それを強引に人に押し付けようとする、そして人の話を決して聞こうとしないことです。そこでストレスが生じます。そのストレスを発散できない米国人は、居酒屋に行く代わりに、わざわざ一時間何百ドルも払って仕事帰りに精神科医のカウンセリングを受けているという具合です。
格差、貧困そして医療これらが多くのことが「民営化」という、市場原理で動いた結果、「国家」と呼べるのか疑問な状態になってきています。
貧困に目を向けてみます。
アメリカでは、四人家族で世帯年収が2万ドル(220万円)以下の世帯を「貧困」と規定し、その家庭の子どもを「貧困児童」としています。2005年度のアメリカ国内貧困児童率は17.6%、過去五年間で新たに130万人の貧困児童が増えています。
アメリカでは、「貧困」と「肥満」は同義語になりつつあります。

「米農務省によると、果物や野菜、穀物類などを十分に摂り、健康的な食生活をしている米国人は2%以下にすぎない」

とワシントン・ポスト紙は報じています。
そして

「ファーストフードはたしかにファーストに(早く)食べられる。でもそれは同時に肥満や病気へのファースト(早道)であり、最終的には墓場へのファースト(早道)であることを、私たちは肝に銘じなければならない」

とニューズウイーク誌は報じています。

「貧困地域ほど無料もしくは割引給食に登録する生徒の数は多くなります。子どもに朝食も食べさせられない貧しい地域の親たちにとって、給食プログラムは命綱です。たとえメニューがコスト削減のためのジャンクフードばかりだとしても、空腹のまま授業を受けさせるよりはましだと親たちは考えるんです」

とニューヨーク州ブロンクス公立小学校の教師は語っています。

『拒否できない日本』という本に、

「アメリカは同盟国であるから日本の立場も考えてくれているはずだ、などと幻想を抱く方がどうかしています。老獪なアングロ・サクソンを前にして、彼らの善意を期待するなど危険なほどナイーブなのではないか」

と書かれています。
ベストセラーになった『貧困大国アメリカ』という本では、盲腸の手術で4,5日入院した場合、ニューヨークでは一日240万円以上になると書いています(日本は全部で30万円以下です)。

「市場原理」は競争によって質を向上させる合理的システムだと言われる一方で、「いのち」を扱う医療現場に導入することは逆の結果を生むのだと、アメリカ国内の多くの医師たちは現場から警告し続けてきました。しかし、現状は悲惨なものになっています。
教育、医療、安全等々、市場原理を絶対に入れてはいけない場所、国が国民を守らねばならない場所があることを、暗礁に乗り上げた国アメリカの現状から、私たちは学び取るべきではないでしょうか。

VIII 最後に


今月から裁判員制度が始まりました。この制度を始め、法科大学院等々一連のかぎかっこ付きの「改革」の底流にはたった20分で終わったという日米構造協議があります。また、日本の首相が次々に代わっても日本のすべきことが書かれている日米「年次改革要望書」があることは、次第に明らかになってきています。某清純派容疑者をはじめとし、PR活動に16億円を投入して始めた裁判員制度。これも「年次改革要望書」でアメリカが要望していることです。
民主化はやらないよりはやった方がいい、という単純な発想と、そうやって一旦、決まったことはやらなければというコンプライアンスのもとで、裁判員制度が多くの国民は深く考えることなく突入しました。決まったことはやらなければならないとだけ考えて、何故やるのかを深く議論せず、泥沼に突き進んでも突入しました。それは、さきの大戦と同じ構図です。
延々と時間がかかりそうですのでまとめに入ります。といっても何も結論が出るようなことではありませんが。

裁判員制度:民主的=正しい, 日本経済新聞:消費者が望む=正しい

これらは同じ稚拙な論理です。国民の思考が停まっています。郷原信郎がいう『思考停止社会』です。
そしてアメリカナイズされた訴訟のオンパレード。
rightは「権利」という意味の前に「正しい」という意味がきています。それを忘れて、例え嘘をついてでもその場を切り抜けようとする。そういう大人の行動を子どもが見ていても、です。

子どもに目を向けると、男の子は「ホームレス狩り」に熱中したり、「オンライン・ゲーム」なる沈黙の遊戯に埋没していたりしています。女子はといえば、「電車内での化粧」に精を出したり、「援助交際」という名の少女売春に体を差し出したりしております。
そういう光景が日常茶飯だという報告でメディアは賑わっており、そんな青少年の有り様について嘆く大人たちの声も頻りです。そしてついに、男子にも女子にも麻薬汚染が広がり、清純派と謳ったタレントが逮捕されたりしています。これらの情報が誇大宣伝である可能性もありはしますが、「火のないところに煙は立たぬ」というべきでしょう。

教育問題はことさら騒ぎ立てるには値しない、と構える人も後を絶ちませんが、逆に構えるのが大人の務めのはずです。つまり、「最近の若者には困ったものだ」と大声でいってやるのが大人の義務ではないかということです。
私は、子供たちの精神の深部に達するような発言と振る舞いを大人たちが「演じ続ける」ということ以外にないと思います。そうしないかぎり、どんな「制度改革」も「制度弄り」に落ちていくことは明らかです。最初に示した「公人性」が「私人性」より重要だと言い続けることだと思います。

「あるべき社会」が存在したこと、つまりユートピア的社会はかつて一度もありません。最初に申し上げたように、ユートピアという言葉の原義は「あり得ない場所・こと」という意味です。
ただ、「あるべき社会」を構築しようという気持ちを持つことが大切です。
失った意欲を取り戻すことです。その意欲をことごとく奪ったのは、国民が推進してきた「グローバリゼーション」の結果だったことを忘れないことです。

グローバル資本主義とは人類にとっての「パンドラの箱」であったのではないか。
モラルの崩壊は産業界に限ったことではない。近年、親が子を殺したり、あるいは逆に子が親を殺したりするような犯罪、あるいは自分の欲求不満や閉塞感を解消するという目的のためだけに無差別の大量殺人を行うといった、かつての日本では考えられなかったような凶悪な事件が年を逐うごとに増加しているように見える。
「より儲けた者が勝ち」という新自由主義的な価値観は、裏を返せば「目的のためには手段を選ばない」「稼げない人間は負け組であり、それで飢えたとしても自業自得である」という考えにそのままつながる。こうした自己中心的な発想が蔓延したことが、今の日本社会から「安心・安全」あるいは人と人との信頼関係や絆が失われる事態を巻き起こしてしまったのではないだろうか。

これはそのパンドラの箱を開ける作業をした一人、中谷巌の著書の一文です。私たちはこの懺悔の文を忘れないことです。
大人が口うるさく思われようとも言い続けること、子どもによき姿を演じてみせること。これが最も大事なことではないでしょうか。

他にもテーマとしてレジュメに載せておきながら、触れることが出来なかった不手際をお詫び申し上げます。また、勉強不足でいたらない点、偏見にみちた点が多々あったことも併せてお詫び申し上げます。

この会がますます盛大になられることを心からお祈り申し上げ、私の拙い話を終わらせていただきます。
ご静聴、有難うございました。


[1]MSA協定:Mutual Security Act:相互安全保障法)正規の名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」 。同協定と同時に、農産物購入、経済措置、投資保証に関する日米協定も公布された。これらを総称してMSA協定と呼ぶ。各協定の根拠がアメリカの相互安全保障法(略称MSA)に求められたため、このように称されている。アメリカの相互安全保障法は、アメリカの援助受入国に対して自国と自由世界の防衛努力を義務づけた法律であり、日米相互防衛援助協定も、自国の防衛力だけでなく自由世界の防衛力の発展・維持に寄与するとともに自国の防衛能力の増強に必要なすべての合理的な措置をとる義務を日本が負うことを規定した。(国立公文書館)

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://mar2002.blog92.fc2.com/tb.php/27-31286735

トラックバック

コメント

[C6] 管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

「現代社会の問題を糺し未来の扉を開く会」

検索したいキーワードを入力して、「検索」をクリック

Basic Calendar

<09 | 2018/10 | 11>
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

FC2ニュース

今日の天気は?


-天気予報コム- -FC2-
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。