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十二人の怒れる男

十二人の怒れる男

12 ANGRY MEN


 いつか気楽に映画のことを論じてみたいと思ったのは、今から随分前のことである。少し時間が取れたので、あちこち寄り道しながら気ままに述べてみたい。
ここで取り上げる『十二人の怒れる男』という古いモノクロ映画は何度となく観た。最初から最後まで、ほとんど一室でやり取りが行われるこの映画の、どこに惹かれるのかと尋ねられたら、「言葉だけの映画だから」と答えるであろう。映画であるから、あれこれ矛盾点を挙げればきりがない。それは十分承知の上であるが、古き良きアメリカ、ディスカッションが民主主義の根底にあるという理想(したがって現実にはまず、あり得ないこと)を描いた作品だと思っている。

 多くの方がご存知だと思うが、簡単に内容をご紹介することから始めたい。

製作年:1957年(ユナイト)/日本公開1959年8月

監督:シドニー・ルメット

キャスト:ヘンリー・フォンダ(陪審員8番)、リー・J・コッブ(陪審員3番)、エド・ベグリー(陪審員10番)、マーティン・バルサム(陪審員1番)、E・G・マーシャル(陪審員4番)、ジャック・クラグマン(陪審員5番)、ジョン・フィードラー(陪審員2番)、ジョージ・ヴォスコヴェック(陪審員11番)、ロバート・ウェッバー(陪審員12番)、エドワード・ビンズ(陪審員6番)、ジョセフ・スィーニー(陪審員9番)、ジャック・ウォーデン(陪審員7番)

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アワード:ベルリン国際映画祭金熊賞受賞(1957年度)

あらすじ:スラム街に住む18歳の少年が深夜、自宅で父親をナイフで殺した容疑で逮捕される。有罪ならば第一級殺人で「死刑」。少年が有罪か否か、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描いた作品。
検察側証人は二人。階下に住む老人が「殺してやる」と叫んだ少年の声を聞いたということと、通過する列車の窓越しに殺害場面を目撃したという女性(画面では出ずに、いずれも陪審員の議論の中で分かってくる)。

陪審員制度について
ここで、アメリカの陪審員裁判について触れておきたい。
12人の陪審員によって、有罪か無罪かを決める(のみ)。あくまで法廷の審理の中で見聞きしたことだけに基づいて判断する。したがって自ら証拠を調べたり、法廷で証人や被告人に質問することは出来ない。また、この評決は「全員一致」でなければならない。12人というのは12使徒からかなと思ってしまう。
ちなみに、日本の裁判員裁判では、裁判員(6人)は裁判官(3人)と一緒に、証人や被告人に質問することが出来、評決は「過半数」の賛成で決まる。
以下、陪審員制度と裁判員制度について、簡単に表にしてみる。

アメリカ陪審員制度

日本の裁判員制度

陪審員

名称

裁判員

12

人数

裁判員6人+裁判官3人

有罪か無罪かを決めるのみ。陪審員は法廷の審理の中で見聞きしたことだけに基づいて判断する。自ら証拠を調べたり、法廷で証人や被告人に質問することはできない。

 

 

役割

裁判官と一緒に裁判の全過程に関わる。有罪か無罪かを決めるだけでなく、量刑についても判断する。自ら証拠書類の取り調べをしたり、法廷で証人や被告人に質問することもできる。

陪審員だけで評議し決める。

評決に至るまでの裁判官の関与

裁判官も一緒に関わる。

法廷での証言が決定的

評決の決め手

捜査段階での供述(調書)が決定的。

陪審員の全員一致

評決

裁判官と裁判員の過半数の賛成

判事

量刑の判断

裁判官と裁判員

 
私見
ここから私見を述べていきたい。

まず気になる言葉として、繰り返し出て来るのが、「guilty」と「not guilty」であるが、これを「有罪」と「無罪」と訳してしまうと(そう訳すしかないのだろうが)、この映画で言いたいことが随分薄まってしまうのが気になる。
「not guilty」はあくまでも「有罪とは断定できない」という意味で使っているのである。

本論に入る。
「not guilty」について述べたことが象徴するように、この映画では真理に関する「形式論」が展開される。真理を知るのは神のみであるというアングロサクソン系の考えが底流にあり、人間は形式的に論理を組み立て、論理を裏付けるエビデンスを出し、賛成か反対かを議論し説得力のありそうな結論を、取り敢えずの真理とする形式論理。それと陪審員が議論した結果の全員一致によって、庶民の「安定した」意見が反映されると考えるのであろう。論理の積み重ね、この映画を観ていて、ふと「記号論理学」を思ってしまう。
感情ではなく、前提→結論→前提→結論・・・の繰り返し、まさに言葉だけの映画であり、そこが私には魅力的に思われる。

この映画の心理描写が上手な点は、細部に気を配っていることにもある。

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クーラーのない蒸し暑い部屋で、初めは時間が来ないと扇風機さえ回らない中で議論が行われていく。雨が降り始め、異様な苛立ちと熱気が漂う部屋を見事に描写している。真理は細部に宿るのか。

陪審員はそれぞれ自分の仕事を持つことから、早く結論を出そう、それには最初から有罪か否か挙手しようということでまとまる。確かな証人の供述もあり、物証の特殊な彫物をした凶器のナイフも、容疑者が自分が買ったものだと認めていることだし、全員が有罪とするだろうと言いながら挙手に入る。結果は有罪11人、反対1人(陪審員8番)で全員一致にはならない。11人の中から、陪審員8番に対し「あなたはあの子がやっていないと思うのか、彼の言い分を信じているのか」と詰め寄る声が起きる。陪審員8番は「信じてはいない。ただ、6日間裁判を聞いていて、18歳の少年の運命、人の生死を僅か5分で簡単に決めていいのか、迷っているのだ。1時間は話してやろうじゃないか」と答える。憤った一人が「あんたは何を望んでいるんだ」と怒鳴ると、陪審員8番は一言「talk」と答える。「あの少年はスラム街で育ち、母親は彼が9歳のとき病死し、施設を転々とし、反抗的になっていった。少しは討論してやろうではないか」と言う。
皆に納得いくような、反対するだけの何か根拠があるのかという質問に「立証責任は検察だけであり、私たちはあくまであの法廷で話し合われたことからだけで判断すべきだ」と答える。

「殺してやる」と階下に住む老人が聞いたという証言に対しては、「殺してやる」という言葉を本当に殺すときなら、声に出さずにやるのではないかと言われると周囲は静まってしまう。

「少年に前科があり、ナイフによる喧嘩もこれまで何度かあったことや、目撃者、階下の老人が聞いたこと等々、明白な証言や証拠ばかりなのが逆に気になる」と陪審員8番は言う。また、国選弁護人のやる気のなさも気になったと言う。
「あの特殊な彫物をしたナイフは動かしがたい証拠ではないか」という反論というより罵声に、陪審員8番は自らのポケットからそっくり同じナイフを出して周囲がどよめく。
「少年の住む町の質屋で買ってきたものだ。特殊なものではない」と言う。
「今、私(陪審員8番)以外の11人で投票してほしい。全員一致したなら私もその結果にしたがう」と言い、無記名の投票が行われる。その結果、11人中、1人が無罪(not guilty)。

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唯一の目撃者である高齢の女性の目のところに、普段眼鏡をかけているような深い溝のような皺があったということから、目撃したことへの信憑性がぐらつく。深夜、とっさに窓越しに数秒間目撃したという証言自体疑わしいと言うと、議論がひっくり返る(勿論、これにもいくらでも反論が生まれるはずだが、そうしたら映画が進まない)。老人が聞いた叫び声にしても同じように否定されていく。
何度かの投票を繰り返すたびに有罪を唱える人数が、加速度的に減っていく。陪審員の中におけるポピュラリズムとも言える。

陪審員8番ヘンリー・フォンダは「真実は自分にも分からない。無罪を信じているわけではなく、有罪を証明できないのだ」と繰り返す。

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この事件を自分と息子との関係に移し替え、最後まで有罪を唱えていた男が、自分の心理が崩壊してワッと泣き、陪審員全員一致で少年の無罪を評決する。
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事例には法律に合うが道徳には反すること、逆に法律に反するが道徳には合うことがある。この映画では法律的な「計算」ばかりで、道徳的なことは出て来ない。

最後に
最後に三つのことを述べておきたい。
1)「有罪か無罪か、ということでみんな騒ぐが、クリスチャン風にいえば人間は生まれながらにして有罪に決まっている。だから有罪か無罪かを争っている法律的出来事など、たいした出来事ではないかもしれない」と、かつて書いた人がいた。「原罪」ということについて述べたのであろう。これはoriginal sinとcrimeを混同した誤りであることを述べておきたい。

2)冒頭で「ディスカッションが民主主義の根底にある」と書いた。また、「何度かの投票を繰り返すたびに有罪を唱える人数が、加速度的に減っていく」とも書いた。これは日本の所謂「空気」ではないのか。陪審員内の「空気」ではないのか。
それは否である。
かつて山本七平先生はこう教えてくれた。「空気」の支配ほど民主主義とほど遠いものはない、と。
論理の積み重ねで説明することができないことを「空気」と呼び、われわれ日本人は論理的判断基準と、空気的判断の基準という二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きていると教えてくれたことを付け加えておく。
映画の中で「全員一致」に達したのは「空気」によるものではない。論理の積み重ねの結果である。

3)役柄とはいえ、ヘンリー・フォンダは冷静すぎる気がする。ジェーン・フォンダやピーター・フォンダが、この父親に逆らったという気持ちが分かるような気がする。ジョン・ウェインらが「アメリカのどこが悪い!」と頑張っていた時代の象徴かも知れない。

何度観てもいい映画である。

そのうちいつか、日本の古い映画について論じてみようと思う。
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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

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