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メディア私論(その1)

メディア私論(その1)



あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
お陰様で私たちのシンポジウムも、昨秋第十回を無事終えることが出来ました。これも、皆様方のご理解・ご協力の賜と深く感謝申し上げます。

1 メディアとは何か
今年最初のブログは、「メディア」について私的な考えを2度にわたって論じてみたいと思います。メディアの在り方は現代社会の抱える大きな問題だと認識しています。
「誤用」や「虚報」で昨年大きな問題となり、誇っていたクオリティーを失墜した朝日新聞ですが、1月6日の第一面に「第三者委員会の指摘をもとに読者の皆様と共に考える新聞を目指す」というような趣旨の、社長の見解が述べられていました。
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再生の意気込みを誓ったこの文章を読み思わず、かつてニーチェが言った言葉を思い出しました。彼は

世論と共に考えるような人は、全て自分で目かくしをし、自分の耳に栓をしているのだ。


と言っています。

ひとまず、メディアを情報交換の「媒体」と定義しておきましょう。これはよく知られています。
(M.マクルーハンは、有名な『メディア論』の中で「メディアはメッセージである」「三種類の敵意にみちた新聞は、1000の刀剣よりも怖い」と思慮深い言葉を発しています)
MediaはMedium(中間,中位)の複数形で、[なかだち]ということから(伝達,表現などの)手段,方法; 形式を意味するようになりました。
そのメディアでは「国民の公器」とか、「言論の自由」という言葉をよく発せられます。
「世論がこういっているから、こうしなければいけない」とか「世論がそうだから正しい」というのが常套句です。
「国民の公器」を自称する新聞人には、STAP細胞の事件で自殺した故・笹井芳樹氏のご遺族の「絶望しか見えない」と発したあの言葉を、悲痛と感じる感覚が麻痺しているのかもしれない。
ご遺族はこう言った。

「この半年があまりに長く、私どもも疲れ切っております。今は絶望しか見えません。」(中略)
「このたびのことで、私どもも大変傷つき苦しんでいます。報道機関の皆さまには、私どもの心情をどうかご理解いただき、またプライバシーにもご配慮いただき、これ以上の取材などは控えてくださいますよう、どうかお願いいたします。」

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朝日新聞は、朝日デジタルで「小保方さん、『大人AKB48』で歌手デビュー!(うそ)」という記事を載せ、「まもなく不適切との指摘があり、検討の上、朝日新聞デジタルの責任者が同日中に削除を決めた。」と書いた。これが「国民の公器」と(勝手に)自称しているのである。
「言論の自由」「報道の自由」とはまさか弱い者いじめの代名詞ではないでしょう。
最近の朝日新聞はいつの間にか、「被害者」のような書き方をしているような気がしますが、過剰なメディアによって苦しむ人々の心痛を少しは汲み取ることが出来る組織になってほしいものです。

2 報道か洗脳か
再度、軌道修正しよう。
「朝日新聞」(をはじめとするメディア)にとって問題なのは、彼らが書く(言う)ことは報道というよりは、むしろ自分の意見だと言えることではないでしょうか。
「従軍」慰安婦問題も福島の「吉田調書」の「誤報」も、戦争責任、反原発という政治目的を事実の報道より優先的に考え、その為なら多少の疑問がある記事でも載せたと言えるでしょう。
意見を事実であるかのように述べる、言い換えると読者を「洗脳する」と言ったら言い過ぎでしょうか。昔、或る雑誌が「朝日新聞」に広告を出そうとした時、目次の一部に中華民国という文字があった事に文旬をつけ、それを国府だか台湾だかに改めさせたということがありました。広告に中華民国という国名の使用を拒絶したのです。朝日新聞の全盛期だったと思います。これに比べると、今回、一度は拒否した週刊新潮や週刊文春の広告を掲載したこと、櫻井よしこ氏の国家基本問題研究所の「意見広告」を掲載したことは、明らかに朝日新聞の弱体化を示しています。
池上某のコラムの問題など些末な問題です。
新聞は自分の手も汚れていることを自覚し、余りきれい事を並べず、常に弱い者、正しき者の身方である様な顔をしないでもらいたいものです。
朝日新聞は「再生」のために「第三者委員会」という組織からの意見を拝聴して、信用や名誉の回復のために「読者と共に歩む」らしい。

今回の朝日新聞は、何故読者に自らの意見を「虚報」までして「教え込ませよう」としたのか一切、触れていません。最も重要な体質の問題です。誰もが知りたいことです。
政治家や有名人が不祥事を起こすと、「責任はどうとるのか」という常套句を吐くメディア。
責任追及はお手の物です。
ところが、今回自らの身の処し方を「第三者委員会」に委ねたということは、「自己責任」能力の欠如とも言えるのではないでしょうか。廃刊、廃業という覚悟のない見え見えの「第三者委員会」の結論に甘んじているようにしか思えません。

朝日新聞は失われた信用や名誉を回復するため共に歩むと書かれていました。
ただ、信用や名誉は新聞だけの專有物ではありません。個人にとっても大切なものです。新聞の誤報によってそれを失った個人は、「朝日新聞」のように自己を弁護し、自己の正義も主張する場も持ってはいません。
先に述べた笹井氏のご遺族に、自らその頭(こうべ)を垂れたメディア人はどれほどいるのでしょうか。

新聞を読まない人の方が、読んでいる人よりも正しく物事を認識できる。何も知らない人は、嘘、偽りに心を奪われている人より真実に近い。


これはアメリカ大統領のジェファーソンの言葉です。

自説に固執し、夢中になることは、愚鈍さの最も確かな証拠である。


これはフランスの思想家モンテーニュの言葉です。

朝日新聞は、これからは事実を正直に報道するとか言っています。これは詭弁に近いものとしか思えません。

「正直者は自分で正直者とは言わないから正直者なのであり、真面目に働く人とは、もっと働かないといけないのではないかと思っている人であり、朴訥人とは朴訥という意味内容を知らない、つまり狡猾という反対の生き方を知らない人であり、したがって、そういう定義を下し得ない人だからである。」


これはかつて会田雄次氏が言った言葉です。

テロ、人種差別、汚職等々これだけは幾ら悪口を言ってもどこからも文句が出ないことに対して、メディアは居丈高に非難・攻撃します。誰に意見、感想を求めても「良いことだ」と言わないことには。
あたかも正義感の発露でもあるかのように民衆を煽るのです。
それを「偽善」と定義しても差し支えないでしょう。
「唯一の被爆国・日本」から「核廃絶」を唱えることに反対する人は、まずいないでしょう。ですが、原爆は勿論、東京大空襲で、一夜にして無辜の市民十万人を殺傷した米軍の行為をホロコーストではなかったのでは、と主張する大手メディアはありません。ちなみに「ホロコースト」の原義は、「(宗教的供物として獣を)燃やす」という意味です。東京大空襲はこれに該当する行為だ、と論を張る大手メディアはないと思います。

3 民主主義とは?
メディアは何か批判的に言われると「民主主義の危機」「言論の自由への介入」という刀で返してきます。一体、彼らの言う「民主主義」とはどういうものでしょうか。
多分それは「物事を暴力によってではなく話合いによって解決すること」と同義でしょう。また、大部分の日本人がそう思っているでしょう。

民主主義の根幹は多数決原理です。
簡単に言えば、多くの人々が主張する方向・方策に行けば、それほど間違いはないだろうという考え方です。
本来、民主主義は最善の社会を齎(もたら)す最善の方法ではなく、唯単に最悪の事態を避ける為の消極的=防衛的方法に過ぎません。もしそれを最善の方法と考えたとしたら、民主主義ほど始末に負えない代物は他に無いでしょう。言うまでもなく、民主主義は君主、支配者、政府権力などの強者を、その利己心の横暴を抑制する手段として思いついたものです。その意味において消極的=防衛的なのです。
民主主義というとアメリカが代表的ですが、そのアメリカ民主主義の腐敗・混迷を19世紀にすでに予測していたのが、フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルです。
彼は有名な『アメリカのデモクラシー』のなかで、次のようなことを書いています。

アメリカは民主主義国家として近代社会の最先端を突き進んでいる。いずれ新時代の先駆的役割を担うことになるであろう。民主政治とは「多数派(の世論)による専制政治」である。その多数派世論を構築するのは新聞(今で言うところのメディア)ではないか。しかし、アメリカはいずれ大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱に陥るであろう。

トクヴィル

民主主義とは温情主義的な話合いを意味するものではなく、そういう馴合いを拒否し、乾いた冷たい政治体制です。「家庭的」なものとは程遠いものです。
それを述べている一例として、福田恆存が『一匹と九十九匹と』の中で書いている内容を、私なりに要約してみます。(彼は文語体聖書を使っています)

「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや。」(ルカ伝15章)


(新共同訳では「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」となります)
福田はこう続けています。

もちろん正統派の解釈は蕩児の帰宅と同様に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどってきたものに、より大きな愛情をもつて対するクリスト者の態度を説いたものとしている。たしかにルカ伝第十五章はなおそのあとにかう綴っている─「つひに見いださば、喜びてこれをおのが肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんぢらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」


(そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(新共同訳))

政治の限界を承知のうえでその意図をみとめる。現実が政治を必要としているのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としているにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷いとを体感していなければならない。

この一匹の救いにかれ(イエス・キリスト)は一切か無かを賭けているのである。なぜなら政治の見のがした一匹を救いとることができたならば、かれはすべてを救うことができるのである。


そしてこう言い切ります。

失せたる一匹の無視せられることはなにも現代にかぎったことではない。が、それはつねにやむをえざる悪としてみとめられてきたのであって、今日のごとく大義名文をもってその抹殺を正当化した時代は他になかった。それは一時の便法ではなく、永遠の真理として肯定されようとしている。いや、現代はその一匹の失われることすらみとめようとはしない。社会はその框(かまち)のそとに一匹の残余すらもつはずのないものとして規定せられる。


多数決が根幹にある民主主義、それによって「合法的」に一匹が無視される痛み・苦悩をイエスは知っていたと書いています。
政治家も知識人も、メディアも、民主主義を金科玉条の如く唱えるのではなく、痛み・苦しみを心すべきではないでしょうか。

ただ、民主主義を否定しているのではありません。民主主義に代わる制度はまず(当面は)ないでしょう。ですが民主主義だけでは駄目だと言いたいのです。
民主主義は、敵を仮想した思想であり、敵意に備える思想です。が、悪を抑えるという消極的行為はそのまま善を生む積極性に転じはしません。

民主主義の世の中で本当に物を考え、物を育てて行くことが極めて難しいということこそ、メディア人は人々に知らせるべき責任があると思います。
政治学者でもない人間が、メディアや民主主義についてお粗末な内容を書いてしまいました。

次回は、もう一つの「メディア」、ギリシャ悲劇の『メディア』という作品について論じてみます。

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プロフィール

marchan

Author:marchan
千葉 糺(ちばただす)
1947年生

東京理科大学大学院修了(数学・複素関数論専攻)
平成14年~18年度学習院中等科長・高等科長。任期満了の後、学習院高等科教諭(平成19年~24年度)を経て
学習院名誉教授。

(写真は雑誌『Shi-Ba』V.43
から。黒柴マーちゃん,
愛猫いっちゃんと)

国画会彫刻家 故・千野茂氏にデッサンを学び、その後テンペラ画を中心に個展、グループ展等開催。

時間を見つけて谷中「全生庵」坐禅会参加。日本ユダヤ学会会員。
2007年、イスラエルを中心に旅行。


最近の紀要論文
(1)『イエス・千日で世界を変えた男の受難』─「『事実』と『真実』というaporia」─
学習院高等科紀要第5号(学習院高等科 2007年)

(2)『イスラエル・灼熱の旅 リポート』─荒野の民から学ぶ─
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)

(3)『ナザレのイエスはキリストか』=二千年前の一ユダヤ人の死をめぐる過ぎ去ろうとしない「過去」=
学習院高等科紀要第6号(学習院高等科 2008年)
(4)『ユダヤ灼熱の旅リポート2』
─平和ボケの民と臨戦態勢の民─
学習院高等科紀要第7号(学習院高等科 2009年)
(5)『聖書への旅』─「生きること」の意味を探して≪マタイ受難曲を聴きながら≫─
学習院高等科紀要第8号(学習院高等科 2010年)
(6)「パリサイ派とは何か」─現代に問う
補遺 聖書を側面から理解するために
学習院高等科紀要第9号(学習院高等科 2011年)
(7)─横顔・一七世紀オランダ絵画・印象派─西洋絵画についての一考察
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(8)聖書が私に教えてくれること
─『イザヤ書』、コルベ神父、そして山本七平─
学習院高等科紀要第10号(学習院高等科 2012年)
(9)四十年を振り返る
学習院高等科紀要第11号(学習院高等科 2013年)
(10)『院歌の周辺』 ─安倍能成 信時潔 岩波茂雄 頭山満─(学習院高等科 2014年)
(11)『ヘブライ語で学ぶ創世記Ⅰ』「ノアの箱舟」
(12)『これからの教育はどうあるべきか 数学者・秋山 仁先生との対談』(学習院高等科 2015年)
─ 今まさに問われていること ─
(13)『国際化とInternationalizeの狭間で』
─その大いなる溝─(学習院高等科 2015年)
(14)『これからを生きるために』─未来志向の経営の理念─(学習院高等科 2016年)
(15)『地球儀を傍らに』─教職追放 地政学 国際法 民主主義─(学習院高等科 2016年)

(写真は死海での筆者,
シナイ山頂での夜明け)

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